はじめに
福島事故を受け原子力関係者は多いに自戒するべきですし、実際謙虚に反省し対応していますが、それとともに理不尽な言動には適切にまたタイムリーに反論する必要があるのは言を俟ちません。しかし、反論そのこと自体が一種の心理的な自己束縛になってしまい、原子力のフィールドだけで攻防してしまい勝ちです。
これは一般国民から眺めると、原子力関係者の自己の利益保全としか見えないきらいがあるのが残念です。勿論、これは誤解なのですがそういう受け止め方をされている、ということにも考えを及ぼすべきでしょう。ここでは、原子力とは関係のない世間一般の日本国民という視座に戻って、まず「今の日本にとって何がより優先度が高いのか」を考えてみたいと思います。
そうしますと現状においては以下の3つではないでしょうか。
1.安全・安心について、日本全体をみてもっとバランスよく気配りをしたい。
2.経済力を再起させ、活気ある社会をとりもどしたい。特に若い人に希望を与えたい。
3.日本という民主主義国家を守りたい。この温和で仲の良い社会は守りたい。
まず1.「日本全体でバランスのいい安全安心」について
国外でみればアルジェリアで露見したように、国外邦人が受けている安全・安心は脆弱です。国内でみれば、例えば、母親にとって子供の安全・安心は、何よりも大切なことでしょう。食べ物が汚染されている可能性がちょっとでもあれば、安全基準はともかく、不安から食べさせたくないと考えるのが母性愛でしょう。それは自然なことです。それではバランスは誰が考えるのでしょうか。普通の母親にはバランスまでは分からないでしょう。前政権は食物の放射能基準を医学的にも国際的にも根拠のない十分の一に引き下げたり、汚染された地域の安全性をことさら誇張し、福島の母親を不安に陥れるだけでした。やはり国やマスコミなどが適切な情報を流し安心をしてもらわなければならないのです。そのようなバランスのとれた情報の発信は国の責任なのです。
また国内の老人・母子家庭・幼児の守りなどの「弱者」にはえてして薄いものです。その反面、弱者をよそおう口達者には口封じのためか配慮がありすぎにも見えます。
もとより使える原資は有限なのですから、無原則的で野放図な安全性の向上を一方的に一途に図るのは幼稚な理想主義です。もっと広く日本全体を見てから資金の「均整のとれた良い配分」をしなくてはいけません。また各対策の「有効性」もちゃんと吟味しないといけません。そういう実利的(プラグマチック)で現実的な発想をするのが大人というものでしょう。
規制委は誠実に努力されておいでですが、ごく一部委員の「一見潔癖な、完全をもとめすぎる思考様式」は残念です。IOJだより63号で述べたような「活断層」の扱いなどがいい例です。日本全体を考えず、提案内容の有効性も評価せず、一途に「どんどん、やれやれ」では困ります。今から見れば民主党の「マニフェスト」は選挙に勝つためだけの虚構でしたが、早晩似たような決着をみることを危惧します。ぜひ制以智力(無量寿経より)していただきたいものです。勿論、希望もあります。「今の規制委員会は安全にはバランス(感覚や判断)がありません」と言いきっている委員もいるようです。こういう意見がいずれ委員会全体に反映される期待があります。また、「基準に沿った」安全の判断は規制委員会の仕事ですが、「どのような基準にするか」自体はバランスのとれた考えが必須で、それは政府または国会の職務でしょう。
ここでいうバランスとは、例えば、「原子力の安全向上」と「自然災害に対する対応能力向上」との2者の内容・コストのバランスなどをふくみます。また、「自由」と「責任」、そして「権利」と「義務」などのバランスも含みます。いずれもどちらか一方だけに焦点を合わせ主張するのは不合理なことです。
2.「経済力再起、活気ある希望のもてる社会」について
?とにもかくにも「雇用拡大」。
?「とくに若い人に夢を与える、希望の創生」、それは在来の延長でなく新技術を核にしたものかもしれません。
?さらに、「日本全体からみた総合力の向上」、それは手始めに縦割り行政解消などをめざすことなどが考えられます。
以上の3点でしょう。
特に、ここ20年続く不況で、どうしても希望を持ちにくい日本社会において、青少年に元気・勇気・活気をあたえるのは我々大人の避けてはならない責務です。その視点を(幼稚でない)大人は忘れてはいけません。
3.「日本という民主主義国家を守ること」は悩ましい問題です。
これは近隣に現実に存在する独裁国家から守るということでもあるからです。この相互関係は放置・黙認しておくと、独裁国に対して、民主主義国は圧倒的に弱いからです。独裁国家の指導者はどんな悪事もできますし、相手を打倒したい欲望にかられやすく、またその行動は著しく俊敏で勇猛果敢です。これに対して考えられる方策は、王手からめ手で多様におこなうことしかないでしょう。
原子力の社会関連度
以上の3点に関し、後述のように原子力はいずれも深く関わっています。そのことが原子力のもつ良い面の本質を示しているのではないかと思います。産業連関という言葉がありますが、いってみれば原子力は社会連関度が非常に高いのでしょう。(ですから原子力を単に発電という面だけからみたり、論じるのは狭量だと思います。)
1.原子力発電の導入は、そもそも日本の致命的弱点であったエネルギー・セキュリティを確保しようという安全・安寧をめざしたものでした。不幸にも福島事故を起こし、住民はじめ国民にかえって不安を惹起してしまったことは慙愧の念に堪えませんが、それでもなおエネルギー・セキュリティの確保という使命は守らないと日本は依然として危険なのです。
2.原子力発電の持つ雇用の広さは強調してもいいことです。関連産業への波及効果が非常に大きいのです。それは他の発電方法とは比較になりません。これは太陽光発電や風力発電にとっては弱点のひとつでもあります。
3.独裁国家に対峙するには、スパイ防止法などの法整備とともに、いろいろな観点からの各種の「抑止力」が必須になります。「悪事を思いとどまらせるいろいろな力をこちらが持つ」ことが大事だからです。その一翼をになうのが原子力であるのは厳然たる事実なのです。
結び
以上のような論旨をもっとはっきり国民に言い、理解賛同を得るべき時期にきている、と思われます。あまりに黙りこくっているのは、もはや害の方が多くなってきており、危険水域に達しているという認識が必要でしょう。その意味から安倍政権は覚醒していて、努力を積まれておいでと見えます。安倍さんご自身の自覚も明確に受け取れます。それは前回の政権時の攻防を書いた「約束の日―安倍晋三試論」小川栄太郎 扶桑社(2012.11刊)にありますし、さかのぼれば「悪と徳と、岸信介と未完の日本」福田和也 扶桑社 (2012.4刊)に源流をみることができるでしょう。
IOJはいままでエネルギー問題と教育問題を扱ってきました。しかしこの2件、エネルギーと教育は孤高を持して単独で存在することはできず、当然ながら周辺の環境と影響しあっています。
従って議論が進んでいくと不可避的に周辺に視野が広がっていきます。いわば放大光明でしょう。その周辺には当然ながら近隣諸国もはいりましょう。それは単に地政学上のことに留まらないでしょう。そういう観点が、そろそろ視野にはいってきたように思えます。
(M.T記)
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