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SEJ 日本のエネルギーを考える会

2号 ものごとの本質を見誤りたくない(1) −「万が一」問題と危機管理−


カテゴリ:  福島事故    2011-5-25 16:00   閲覧 (1940)
<福島原発事故は危機管理対策がとっていれば防止できた>

「万が一」問題とは何か:


大多数の人は日本の原発がよもやチェルノブイリ事故のような大事故を起こすとは思っていなかった。大事故を防止するための議論は尽くされてきたし、相当程度の対策は取られていたからである。しかし、事故は起きた。危機管理に関して盲点があったと言わざるを得ない。盲点が何か既に議論されていたのに、どうして対策が取れなかったのか、その解明が今後の重要な課題である。


「万が一」問題は『発生確率は小さいのに数学的にゼロだと証明できないため、「もし、起きたらどうするのか、と問い詰められると明快に応えることができない問題である」』と定義できるが、これは「危機管理対策」とコインの「裏・表」の関係にある。それは身近に感じられない究極的課題であり、普段は誰も関心を示さない。「危機管理対策」はいつも掛け声だけに終わっているのが実態である。
今回の福島原発問題は大津波に関して「万が一」問題である。地震対策は時間と費用をかけて十分に検討され対策が取られてきたが、福島地点で14mの津波を想定する人はまれで危機管理の対象にならなかった。
原発の場合、「シビアーアクシデント(過酷事故)」が「万が一」問題でそれを想定した「アクシデント・マネジメント対策、AM対策と略」が危機管理である。「AM対策」のどこに欠陥があったのか、しっかり検証していきたい。



「「万が一」問題の例:


「万が一」問題は身近にいくらでもある。例えば、「北朝鮮から原爆ミサイルが飛来して多くの日本人が殺されたら我々はどうするのか」、「尖閣諸島における中国漁船の故意の衝突事件に似た脅威が何度も発生したら我が国はどうするのか」、「ロシアが核弾頭ミサイルを北方領土に配備したらどうするのか」。これらは大抵禁句になっていて議論したら収拾がつかないから国民は思考停止を装い正面から議論しようとしない。しかし、これらの「万が一」問題は、戦後65年を経た現在、日本の生存にとって大きな脅威で危機管理問題として考えておかねばならない。津波の危機管理に失敗してこれだけ痛い目にあった現在、国家の危機管理についても一考するのが当然であるが、誰もそうしない。これが日本人の標準的な「危機管理感」である。「平和、平和」と唱えていれば危機は来ないという虚構に逃げ込むか、無力感という自己否定に逃げ込むのが平均的日本人である。こんなことで良いのだろうか。

「「危機管理」を避けたがる日本人:



将来あり得ない事象に対する備えが「危機管理」である。それにどう対応するかが問題であるが、国が「災害対策基本防止法」やそれを受けて設置された「原子力災害対策特別措置法」を重く受け止めていれば、当然 津波や原発に対して「危機管理対策」をしっかり策定していたであろうが、実際には中途半端に終わっている。福島原発事故に関して原発関係者は国民に謙虚に謝罪しなければならないだろう。
それでは、日本人が「万が一」問題を正面から取り上げずむしろ忌避したがる傾向があるのはどうしてか。何故、費用のかからない現実的な「危機管理」対策を取らなかったのか。その理由として2点指摘したい。


絶対安全を逃げ場とする日本人の倫理観:


日本人は面倒な問題は無意識に避けたがる。そのため思考停止の言い訳になる「絶対」という概念を持ち出しそこに逃避する。人々が「絶対安全」という「空気」に支配されるのは良い例である。この「空気」の下では、「絶対安全」を情緒的に捉え、「空気」に支配され思考停止に陥り現状改善の芽は自然消滅する。食品中毒などが起これば徹底的に解決されたと信じるまで安心しないが、マスコミ報道などが下火になれば解決したと安心し、済んだこととして忘れて平気である。そして同じことは再び繰り返される。「忘れてしまう」とか「うやむや」にするのが我々の常態である。


ある危機対策が不十分であることを指摘すると「そんなことはめったに起こらない。そんなことばっかり言うから事故が起きるのだ」と逆に犯人にされてしまう。戦前負け戦を前にして日本兵は「状況は全く判らなくなった。判らないなら判らないで仕方がない。自らの信念を通すだけだ。それで全滅ならそれはそれで仕方がない」とした。これを津波の危機管理に置き換えると「大津波が明日やってくるかどうか誰にも判らない。判らないなら判らないで仕方がないではないか。これまでの信念に基づいて今まで通りやるだけだ。それで(町や原発)が全滅するならそれはそれで仕方がない」となる。これが我々の価値観の根底に横たわる「状況倫理」とそれに基づく「危機管理感」なのである。日本人の意識は戦前も戦後も変わっていない。



「ささら型」と「タコ壺型」:


もう一つの理由は、日本人の意識が原則を共有する「ささら型」ではなくそれぞれ独立で無秩序な「タコ壺型」になっている点である。「ささら型」とは竹箒のように先端がそれぞれわかれているが根元はしっかりと束ねられている様をいう。


末端は違うが根は同じであることのたとえである。原子力安全委員会、原子力安全・保安院、原子力委員会、電気事業者は協力して原子力安全を確保して行こうという意識をマンネリ化させ、「万が一」問題を徹底して追及していく姿勢を欠き、それが遠因となって福島事故を生じさせた。にもかかわらず誰も責任を取ろうとしない。これらは「タコ壺型」の組織の欠点である。「ささら型」風土になっていないため本来の安全文化を成熟させることができなかったのである。
例えば、保安院が安全に直接関係ない「品質マネージメントシステム」の導入に異常にこだわり、安全と直接関係のない不適合事象の撲滅に執着し過ぎ、技術者を現場から遠ざけておいて安全性が高まるとした思い違い。そのツケが今回の事故となったという見方もできる。保安院の責任は重大である。



安全設計審査指針27:


福島原発が大惨事になった原因の一つは安全委員会の内規である「安全設計審査指針」の指針27にある。わが国の技術をもってすれば、電源復旧は短時間で済み、『長期にわたる電源喪失は考えなくてもよく十分な非常用電源を考慮しなくても良い』と明記しているからである。尐なくとも保安院や安全委員会は指針27ができた時、思考停止に陥ったのではないか。欧米では、事故対策を策定した後に危機管理の有効性を確認する。


すべての対策を全否定して被害の程度を確認・評価するのである。みんなで決めたのだから責任を取らなくて良いという「状況倫理」の金縛りにあっている我々にはできないことであろう。それにしてもAM対策に関する安全委員会の責任は重い。



政治家の短絡的パフォーマンス:
政党を代表する政治家がテレビ討論で福島原発があったから脱原子力に走ろうと主張する。このような歴史的視点を欠いた意見を聞いていて、この方たちは大衆に迎合するだけで「歴史に照らせばどういう判断が正しいのか」という視点が全くないことに驚く。考えてみれば、彼らも歴史を無視した戦後教育しか受けていないから、「贖罪思想」、「贖災思想」、真の「戦争責任論」とか言った哲学的な考え方になじみがないのであろう。また、過去のことを思い出せば、某尐数政党の主張は現状否定ばかりで役に立った例はまれで、この時とばかりに原発反対を声高に主張しているのを聞くと、逆に彼らが原発反対を叫んでいるからむしろ原発推進は正しいのではないかとつい思ってしまう。
彼らは、中国が2020年に100基、2030年に200基の原発大国になるであろう事実を前にして、中国に出かけて原発反対を叫ぶことができるのだろうか。彼の国に原発が300基あり我が国はゼロという状態を想像するとき、日本が中国から見て吹けば飛ぶような小さな国に落ちぶれてしまう懸念は考えなくてよいのだろうか。
原発が安全ならこれほど強力なエネルギー源は世界に存在しない。原発廃止は無資源国の日本が取る選択ではない。福島原発を見て逆に原子力安全をさらに強固にする発想がないのは正常な「危機管理感」の持ち主とは思えない。自然エネルギーは国産エネルギーだから開発に力を入れるべきである。しかし、国家の安全にとって、原子力は自然エネルギーとは訳が違うことを考えられない政治家は真の政治家ではあるまい。世界の将来はこのような政治家の狭い了見をはるかに超えていると思うべきではないか。政治家諸氏は歴史に照らして我が国の将来像を構想せず、目先の結果(支持率)だけにとらわれるのであれば我々とちっとも変わらない。

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2号 ものごとの本質を見誤りたくない(1) −「万が一」問題と危機管理−


カテゴリ:  福島事故    2011-5-25 16:00   閲覧 (1940)
<福島原発事故は危機管理対策がとっていれば防止できた>

「万が一」問題とは何か:


大多数の人は日本の原発がよもやチェルノブイリ事故のような大事故を起こすとは思っていなかった。大事故を防止するための議論は尽くされてきたし、相当程度の対策は取られていたからである。しかし、事故は起きた。危機管理に関して盲点があったと言わざるを得ない。盲点が何か既に議論されていたのに、どうして対策が取れなかったのか、その解明が今後の重要な課題である。


「万が一」問題は『発生確率は小さいのに数学的にゼロだと証明できないため、「もし、起きたらどうするのか、と問い詰められると明快に応えることができない問題である」』と定義できるが、これは「危機管理対策」とコインの「裏・表」の関係にある。それは身近に感じられない究極的課題であり、普段は誰も関心を示さない。「危機管理対策」はいつも掛け声だけに終わっているのが実態である。
今回の福島原発問題は大津波に関して「万が一」問題である。地震対策は時間と費用をかけて十分に検討され対策が取られてきたが、福島地点で14mの津波を想定する人はまれで危機管理の対象にならなかった。
原発の場合、「シビアーアクシデント(過酷事故)」が「万が一」問題でそれを想定した「アクシデント・マネジメント対策、AM対策と略」が危機管理である。「AM対策」のどこに欠陥があったのか、しっかり検証していきたい。



「「万が一」問題の例:


「万が一」問題は身近にいくらでもある。例えば、「北朝鮮から原爆ミサイルが飛来して多くの日本人が殺されたら我々はどうするのか」、「尖閣諸島における中国漁船の故意の衝突事件に似た脅威が何度も発生したら我が国はどうするのか」、「ロシアが核弾頭ミサイルを北方領土に配備したらどうするのか」。これらは大抵禁句になっていて議論したら収拾がつかないから国民は思考停止を装い正面から議論しようとしない。しかし、これらの「万が一」問題は、戦後65年を経た現在、日本の生存にとって大きな脅威で危機管理問題として考えておかねばならない。津波の危機管理に失敗してこれだけ痛い目にあった現在、国家の危機管理についても一考するのが当然であるが、誰もそうしない。これが日本人の標準的な「危機管理感」である。「平和、平和」と唱えていれば危機は来ないという虚構に逃げ込むか、無力感という自己否定に逃げ込むのが平均的日本人である。こんなことで良いのだろうか。

「「危機管理」を避けたがる日本人:



将来あり得ない事象に対する備えが「危機管理」である。それにどう対応するかが問題であるが、国が「災害対策基本防止法」やそれを受けて設置された「原子力災害対策特別措置法」を重く受け止めていれば、当然 津波や原発に対して「危機管理対策」をしっかり策定していたであろうが、実際には中途半端に終わっている。福島原発事故に関して原発関係者は国民に謙虚に謝罪しなければならないだろう。
それでは、日本人が「万が一」問題を正面から取り上げずむしろ忌避したがる傾向があるのはどうしてか。何故、費用のかからない現実的な「危機管理」対策を取らなかったのか。その理由として2点指摘したい。


絶対安全を逃げ場とする日本人の倫理観:


日本人は面倒な問題は無意識に避けたがる。そのため思考停止の言い訳になる「絶対」という概念を持ち出しそこに逃避する。人々が「絶対安全」という「空気」に支配されるのは良い例である。この「空気」の下では、「絶対安全」を情緒的に捉え、「空気」に支配され思考停止に陥り現状改善の芽は自然消滅する。食品中毒などが起これば徹底的に解決されたと信じるまで安心しないが、マスコミ報道などが下火になれば解決したと安心し、済んだこととして忘れて平気である。そして同じことは再び繰り返される。「忘れてしまう」とか「うやむや」にするのが我々の常態である。


ある危機対策が不十分であることを指摘すると「そんなことはめったに起こらない。そんなことばっかり言うから事故が起きるのだ」と逆に犯人にされてしまう。戦前負け戦を前にして日本兵は「状況は全く判らなくなった。判らないなら判らないで仕方がない。自らの信念を通すだけだ。それで全滅ならそれはそれで仕方がない」とした。これを津波の危機管理に置き換えると「大津波が明日やってくるかどうか誰にも判らない。判らないなら判らないで仕方がないではないか。これまでの信念に基づいて今まで通りやるだけだ。それで(町や原発)が全滅するならそれはそれで仕方がない」となる。これが我々の価値観の根底に横たわる「状況倫理」とそれに基づく「危機管理感」なのである。日本人の意識は戦前も戦後も変わっていない。



「ささら型」と「タコ壺型」:


もう一つの理由は、日本人の意識が原則を共有する「ささら型」ではなくそれぞれ独立で無秩序な「タコ壺型」になっている点である。「ささら型」とは竹箒のように先端がそれぞれわかれているが根元はしっかりと束ねられている様をいう。


末端は違うが根は同じであることのたとえである。原子力安全委員会、原子力安全・保安院、原子力委員会、電気事業者は協力して原子力安全を確保して行こうという意識をマンネリ化させ、「万が一」問題を徹底して追及していく姿勢を欠き、それが遠因となって福島事故を生じさせた。にもかかわらず誰も責任を取ろうとしない。これらは「タコ壺型」の組織の欠点である。「ささら型」風土になっていないため本来の安全文化を成熟させることができなかったのである。
例えば、保安院が安全に直接関係ない「品質マネージメントシステム」の導入に異常にこだわり、安全と直接関係のない不適合事象の撲滅に執着し過ぎ、技術者を現場から遠ざけておいて安全性が高まるとした思い違い。そのツケが今回の事故となったという見方もできる。保安院の責任は重大である。



安全設計審査指針27:


福島原発が大惨事になった原因の一つは安全委員会の内規である「安全設計審査指針」の指針27にある。わが国の技術をもってすれば、電源復旧は短時間で済み、『長期にわたる電源喪失は考えなくてもよく十分な非常用電源を考慮しなくても良い』と明記しているからである。尐なくとも保安院や安全委員会は指針27ができた時、思考停止に陥ったのではないか。欧米では、事故対策を策定した後に危機管理の有効性を確認する。


すべての対策を全否定して被害の程度を確認・評価するのである。みんなで決めたのだから責任を取らなくて良いという「状況倫理」の金縛りにあっている我々にはできないことであろう。それにしてもAM対策に関する安全委員会の責任は重い。



政治家の短絡的パフォーマンス:
政党を代表する政治家がテレビ討論で福島原発があったから脱原子力に走ろうと主張する。このような歴史的視点を欠いた意見を聞いていて、この方たちは大衆に迎合するだけで「歴史に照らせばどういう判断が正しいのか」という視点が全くないことに驚く。考えてみれば、彼らも歴史を無視した戦後教育しか受けていないから、「贖罪思想」、「贖災思想」、真の「戦争責任論」とか言った哲学的な考え方になじみがないのであろう。また、過去のことを思い出せば、某尐数政党の主張は現状否定ばかりで役に立った例はまれで、この時とばかりに原発反対を声高に主張しているのを聞くと、逆に彼らが原発反対を叫んでいるからむしろ原発推進は正しいのではないかとつい思ってしまう。
彼らは、中国が2020年に100基、2030年に200基の原発大国になるであろう事実を前にして、中国に出かけて原発反対を叫ぶことができるのだろうか。彼の国に原発が300基あり我が国はゼロという状態を想像するとき、日本が中国から見て吹けば飛ぶような小さな国に落ちぶれてしまう懸念は考えなくてよいのだろうか。
原発が安全ならこれほど強力なエネルギー源は世界に存在しない。原発廃止は無資源国の日本が取る選択ではない。福島原発を見て逆に原子力安全をさらに強固にする発想がないのは正常な「危機管理感」の持ち主とは思えない。自然エネルギーは国産エネルギーだから開発に力を入れるべきである。しかし、国家の安全にとって、原子力は自然エネルギーとは訳が違うことを考えられない政治家は真の政治家ではあるまい。世界の将来はこのような政治家の狭い了見をはるかに超えていると思うべきではないか。政治家諸氏は歴史に照らして我が国の将来像を構想せず、目先の結果(支持率)だけにとらわれるのであれば我々とちっとも変わらない。

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