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SEJ 日本のエネルギーを考える会

81号  「原発の危険神話」と「危険神話の崩壊」


カテゴリ:  原子力安全    2013-8-21 11:20   閲覧 (2255)

はじめに


福島原発事故が起きてから書店の店頭には事故絡みの書が多く並んでいた。その中で「危険神話」なる類の筆頭株は小出裕章著『原発はいらない』?幻冬舎ルネッサンスであろう。それに対極する書は池田信夫著『原発「危険神話」の崩壊』?PHP研究所と思う。中立的立場を自ら標榜する代表例として齋藤誠『原発危機の経済学』?日本評論社ではないだろうか。本稿はこの三冊の書を主に引用しながら、原発の危険神話を俯瞰してみた。

危険・リスクについて


池田は「ハザード」と「リスク」の差異に言及している。《環境リスクを評価する上で重要なのは、ハザード(化学物質の一定量あたりの毒性)とリスク(毒物の総量)を区別することである。化学物質を原発事故に置き換えると、事故の1回あたりのハザードは非常に大きいが、そのリスクは火力より小さい。しかし日本人の殆どがいま放射能を恐れている。日本での原発事故の直接的な死者はゼロだが、この50年間でJCO事故での2人を含めて1年間に0.04人が死んだことになる。落雷で死ぬリスクが原発事故の500倍であることは意識しない。このようなバイアス(目立つサンプリングを代表とみなす傾向)は明らかに法則性があり、原因は進化心理学で分かっており、人々は感情で動くのだ。人間は常に多くのリスクに晒されているので安心だという情報には反応しないが、危険だという情報には敏感だ。》であるが、我々はこのバイアスに注目したい。
一方、小出は、《原発周辺の住民にとっては、急性死の危険性があります。建設中の山口県・上関原発で破局的事故が起きた場合、50万人〜120万人が癌で死亡すると。》と言う。もっともらしい多くの仮定を立てて推論しているが、あり得ない帰結であり、これは論外である。
「危険・リスク」の反語が「安全」と定義すれば、小出は「安全な原発などはない」と断言する。《泊原発での火災事故や配線切断事件、女川原発での制御棒脱落や建屋の火災、志賀原発での定期点検中の臨海事故、美浜原発での二次冷却系配管の破損、蒸気漏れ事故など、全国各所の原発は、地震や津波とは無関係に、しばしば事故を引起している。設計自体のミスや、人為的なミスも少なくない。その事故やミスがどんな結果をもたらすかは、今回の福島第一原発事故の被害がどこまで深まり、広がっていくか分からないように、それこそ「想定外」と言っていい。「安全な原発などはない」は、「すべての原発は危険」と同じ意味だ。》と主張するが、まさに上述のバイアスでもって結論に導いていることが分る。



これに対して齋藤は《今般の原発危機が市民生活に突き付けたもっとも厄介な想定外の事態の一つには、放射線に被曝する可能性が含まれている。》と述べ、《日本政府が計画的避難区域の設定の際に採用した国際放射線防護委員会(ICRP)の国際基準は年間20ミリシーベルトなので、ICRPの中で最も高い水準となったが、意見が二分した。》と紹介している。《政府や専門家は、人間のリスク認識パターンの本質的な特性を十分に配慮し、客観的な確率に関する情報を、真摯に、誠実に、丁寧に説明しながら、具体的な対応策の可能性と、依然として残るリスクに関して正確な知識を提供すべきだ。その上で最後は普通の人々に意思決定を委ねるべきだ。》と結び、「神話」から「実話」に移行していることに注目したい。

自然エネルギーについて


 池田は、《環境省が発表した「再生可能エネルギーで原発40基分の発電が可能だ」の試算結果は、補助金を前提にしたコスト計算であり、事業としては赤字である。》と断じている。原発事故が起きた時は民主党政権であり「再生エネ法は電力自由化の道を閉ざす」、「スマートグリッドの可能性」、「ガラパゴス化するスマートメータ」など、時の政権の政策を、池田が批判していることに耳を傾けたい。


 小出は、「新エネルギーにこだわりすぎると、原発は生き延びてしまう」のタイトルで《自然エネルギーの活用は反対しないが、原発をやめても今のような電気を使う生活を続けたいために、自然エネルギーの駆使には共感できないし、新エネルギーは当面大きな電源にはなりそうにもない。》と、それなりに逃げの手を打っていることに気づく。
 齋藤は、自然エネルギーに関して一切言及していない。



いの一番の主張について


 池田は、《二つの神話:?「安全神話」:最悪の事態でも炉心溶融は起こらない、?「危険神話」:炉心溶融が起こると数万人が死ぬ、が崩壊したのだ。》と書き始めている。《このうち?はあまり気づかれないが、不幸な出来事の多かった中で唯一のグッドニュースである。放射能の健康被害は、従来の想定よりはるかに小さかったのだ。しかし、このような大事件のあと「危険神話」が一人歩きするのだ。こうした状況を改善するには、人々の心理的な安心を際限なく求めるのではなく、何が客観的に安全かという科学的な基準を再検討する必要がある。原発は危険だが、そのリスクを他の発癌物質や環境汚染と同じ基準で比較し、費用対効果を最適化すべきだ。》と正論を述べている。しかしコストだけではじき出せない、「故郷に戻れない」、「離散した生活」での精神的な苦痛などについて更に議論すべきではないだろうか。


 齋藤は、「今般の原発危機においては、原発危機に前もって備えるプロセスにおいて厳しい自然環境に果敢に挑んできた経営の姿が、少なくとも外側の人間に見えてこなかったことこそが、原発危機の背景に対する、どうしようもない不信を招いてしまった根本の理由ではないだろうか」と結び、芥川龍之介の言葉「自然は人間に冷淡なり。・・・」を紹介している。厳しい指摘ではあるが、我々は肝に銘じる必要があろう。
 さらに齋藤は、「過去と将来の断絶」のタイトルで以下の主張をしている。《福島第一原発が危機的な状況になったという報に接して、原発の運営に責任を持つ東電関係者も、原発行政の責任を担っている経産省関係者も、「あれほど大きな地震や津波が到来して、すべての非常用電源が落ちてしまったのは、まったく想定していなかった」と一様に口をそろえた。一方、原発施設の周辺に住む人々やその地域の市町村関係者は、「絶対に安全だと言っていたのに、このようなことが起きるとは全く信じられない」と怒りの声を東電や政府に向けた。ベクトルの方向がまったく正反対に見える、これら二つの発声には、たった一つ、本質的なところで共通点を有している。・・・「これまでに意志決定を積み重ねてきた古い自分」を完全に否定して、突如として「これから意志決定を行おうとする新しい自分」を肯定しているのである。・・・苛酷な自然環境を想定して懸命に技術的な挑戦を行うことは、「『想定外』のことが起きたときに、どのようなことが生じるのか」についても、徹底して考えておくことである。》と続けている。これはまさに「安全神話」、いや「危機神話」の根源的な論点であり、現在を生きる我々に対して自分たちの行為を見つめ直すべきヒントを与えているのではないだろうか。



神話について


 古今東西問わず、神話というものが存在してきた。神話とはストーリー性のある物語形式であり、人間を取り巻く種々の過去の出来事を指すと定義される。日本では『古事記』や『日本書記』などが神話に当たるが、ここで「危険神話」というタイトルを付けた理由は二つある。
一つは池田が著した書のタイトルをそのまま流用したことであるが、もう一つは「神仏習合」という普遍宗教仏教と基層神祗信仰の結合プロセスが「危険神話」に通じると感じたからである。
義江彰夫著『神仏習合』?岩波書店によると、仏教が伝来した当時の、地方社会の底辺は未開で共同体的な社会であり、農民・庶民のレベルは私有と罪の自覚が生まれるまでには、上層でも、平安末から鎌倉時代までの長い歴史を必要とした。
ここで、普遍仏教を「原発の安全文化」に、農民・庶民を「安全と安心を求める住民・マスメディア」に、上層を「電力事業者・政治家・規制当局」に、未開で共同体的な社会を「空気が決める日本社会」に、私有と罪の自覚を「事故の背後に潜む真の原因追究と夫々の責任の明確化」に、読み替えると「原発の危険神話」を理解しやすい。
この「空気が決める日本社会」について、池田は「公害病の虚実」、「暴走する正義」、「売り歩く放射能デマ」、「異端審問」などのタイトルで説明しているが、詳細は原著を参照されたい。

今後について


 齋藤が「はしがき」で社会科学者として以下のことを書いている。《原発をエネルギー政策の主軸としてきた政府や、原発事業を積極的に展開してきた電力会社ばかりでなく、原発事業に資金を供給してきた投資家や金融機関、原発施設を受け入れてきた地方自治体や地元住民、原発政策をサポートしてきた研究者は、将来に向かって、原発のリスクとコストに真正面から向き合い、“力強い意思決定”をすることが求められるであろう。それが、自然の摂理に挑む原発技術をこしらえてしまった人間の責任とも言える。長期的に明らかなことは、今後、原発がどのように展開するとしても、これから廃炉を迎える老朽原発について解体撤去を行い、これまでの原発事業が廃棄物として生み出してきた使用済み核燃料を処理しなければならない点である。短期的な要請と長期的な要請の両立を図ろうと思えば、何らかの形で収益プロジェクトとして成り立たせる必要がある。》
これは、科学の発達でもって原発技術を開発し、恩恵を受けている現代を生きる我々利害関係者全員が、「原発の危険神話」を神棚から引きずりおろして、冷静に、原発の、エネルギーのリスクとコストをバランスさせて評価して行かねばならないことを示唆している。

おわりに


 原発事故が起きてから2年半が経とうとしている。本屋を覗いてみても今や原子力関連の書籍が見易いところから隅に追いやられつつあるのを実感する。大飯原発2基のみが現在稼働し、他は運転していない。暑い夏もこの2年間で乗り切ったから、再稼働はなくても何も問題ないという考えが蔓延し始めている。
一方、新規制基準が7月8日から施行され、再稼働申請を各電力会社が動き始めた。電力料金の値上げも進行し、何かムードが若干変化しているが、本当に問題解決がなされたのであろうか。
事故後1年以内に発行され購入した本などを再度読み返し、一部について比較し、そこに書かれている内容がその後の状況変化にきちんと対応し、予見しているかを検証してみたのである。(T.Y記)

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IOJだより pdf

81号  「原発の危険神話」と「危険神話の崩壊」


カテゴリ:  原子力安全    2013-8-21 11:20   閲覧 (2255)

はじめに


福島原発事故が起きてから書店の店頭には事故絡みの書が多く並んでいた。その中で「危険神話」なる類の筆頭株は小出裕章著『原発はいらない』?幻冬舎ルネッサンスであろう。それに対極する書は池田信夫著『原発「危険神話」の崩壊』?PHP研究所と思う。中立的立場を自ら標榜する代表例として齋藤誠『原発危機の経済学』?日本評論社ではないだろうか。本稿はこの三冊の書を主に引用しながら、原発の危険神話を俯瞰してみた。

危険・リスクについて


池田は「ハザード」と「リスク」の差異に言及している。《環境リスクを評価する上で重要なのは、ハザード(化学物質の一定量あたりの毒性)とリスク(毒物の総量)を区別することである。化学物質を原発事故に置き換えると、事故の1回あたりのハザードは非常に大きいが、そのリスクは火力より小さい。しかし日本人の殆どがいま放射能を恐れている。日本での原発事故の直接的な死者はゼロだが、この50年間でJCO事故での2人を含めて1年間に0.04人が死んだことになる。落雷で死ぬリスクが原発事故の500倍であることは意識しない。このようなバイアス(目立つサンプリングを代表とみなす傾向)は明らかに法則性があり、原因は進化心理学で分かっており、人々は感情で動くのだ。人間は常に多くのリスクに晒されているので安心だという情報には反応しないが、危険だという情報には敏感だ。》であるが、我々はこのバイアスに注目したい。
一方、小出は、《原発周辺の住民にとっては、急性死の危険性があります。建設中の山口県・上関原発で破局的事故が起きた場合、50万人〜120万人が癌で死亡すると。》と言う。もっともらしい多くの仮定を立てて推論しているが、あり得ない帰結であり、これは論外である。
「危険・リスク」の反語が「安全」と定義すれば、小出は「安全な原発などはない」と断言する。《泊原発での火災事故や配線切断事件、女川原発での制御棒脱落や建屋の火災、志賀原発での定期点検中の臨海事故、美浜原発での二次冷却系配管の破損、蒸気漏れ事故など、全国各所の原発は、地震や津波とは無関係に、しばしば事故を引起している。設計自体のミスや、人為的なミスも少なくない。その事故やミスがどんな結果をもたらすかは、今回の福島第一原発事故の被害がどこまで深まり、広がっていくか分からないように、それこそ「想定外」と言っていい。「安全な原発などはない」は、「すべての原発は危険」と同じ意味だ。》と主張するが、まさに上述のバイアスでもって結論に導いていることが分る。



これに対して齋藤は《今般の原発危機が市民生活に突き付けたもっとも厄介な想定外の事態の一つには、放射線に被曝する可能性が含まれている。》と述べ、《日本政府が計画的避難区域の設定の際に採用した国際放射線防護委員会(ICRP)の国際基準は年間20ミリシーベルトなので、ICRPの中で最も高い水準となったが、意見が二分した。》と紹介している。《政府や専門家は、人間のリスク認識パターンの本質的な特性を十分に配慮し、客観的な確率に関する情報を、真摯に、誠実に、丁寧に説明しながら、具体的な対応策の可能性と、依然として残るリスクに関して正確な知識を提供すべきだ。その上で最後は普通の人々に意思決定を委ねるべきだ。》と結び、「神話」から「実話」に移行していることに注目したい。

自然エネルギーについて


 池田は、《環境省が発表した「再生可能エネルギーで原発40基分の発電が可能だ」の試算結果は、補助金を前提にしたコスト計算であり、事業としては赤字である。》と断じている。原発事故が起きた時は民主党政権であり「再生エネ法は電力自由化の道を閉ざす」、「スマートグリッドの可能性」、「ガラパゴス化するスマートメータ」など、時の政権の政策を、池田が批判していることに耳を傾けたい。


 小出は、「新エネルギーにこだわりすぎると、原発は生き延びてしまう」のタイトルで《自然エネルギーの活用は反対しないが、原発をやめても今のような電気を使う生活を続けたいために、自然エネルギーの駆使には共感できないし、新エネルギーは当面大きな電源にはなりそうにもない。》と、それなりに逃げの手を打っていることに気づく。
 齋藤は、自然エネルギーに関して一切言及していない。



いの一番の主張について


 池田は、《二つの神話:?「安全神話」:最悪の事態でも炉心溶融は起こらない、?「危険神話」:炉心溶融が起こると数万人が死ぬ、が崩壊したのだ。》と書き始めている。《このうち?はあまり気づかれないが、不幸な出来事の多かった中で唯一のグッドニュースである。放射能の健康被害は、従来の想定よりはるかに小さかったのだ。しかし、このような大事件のあと「危険神話」が一人歩きするのだ。こうした状況を改善するには、人々の心理的な安心を際限なく求めるのではなく、何が客観的に安全かという科学的な基準を再検討する必要がある。原発は危険だが、そのリスクを他の発癌物質や環境汚染と同じ基準で比較し、費用対効果を最適化すべきだ。》と正論を述べている。しかしコストだけではじき出せない、「故郷に戻れない」、「離散した生活」での精神的な苦痛などについて更に議論すべきではないだろうか。


 齋藤は、「今般の原発危機においては、原発危機に前もって備えるプロセスにおいて厳しい自然環境に果敢に挑んできた経営の姿が、少なくとも外側の人間に見えてこなかったことこそが、原発危機の背景に対する、どうしようもない不信を招いてしまった根本の理由ではないだろうか」と結び、芥川龍之介の言葉「自然は人間に冷淡なり。・・・」を紹介している。厳しい指摘ではあるが、我々は肝に銘じる必要があろう。
 さらに齋藤は、「過去と将来の断絶」のタイトルで以下の主張をしている。《福島第一原発が危機的な状況になったという報に接して、原発の運営に責任を持つ東電関係者も、原発行政の責任を担っている経産省関係者も、「あれほど大きな地震や津波が到来して、すべての非常用電源が落ちてしまったのは、まったく想定していなかった」と一様に口をそろえた。一方、原発施設の周辺に住む人々やその地域の市町村関係者は、「絶対に安全だと言っていたのに、このようなことが起きるとは全く信じられない」と怒りの声を東電や政府に向けた。ベクトルの方向がまったく正反対に見える、これら二つの発声には、たった一つ、本質的なところで共通点を有している。・・・「これまでに意志決定を積み重ねてきた古い自分」を完全に否定して、突如として「これから意志決定を行おうとする新しい自分」を肯定しているのである。・・・苛酷な自然環境を想定して懸命に技術的な挑戦を行うことは、「『想定外』のことが起きたときに、どのようなことが生じるのか」についても、徹底して考えておくことである。》と続けている。これはまさに「安全神話」、いや「危機神話」の根源的な論点であり、現在を生きる我々に対して自分たちの行為を見つめ直すべきヒントを与えているのではないだろうか。



神話について


 古今東西問わず、神話というものが存在してきた。神話とはストーリー性のある物語形式であり、人間を取り巻く種々の過去の出来事を指すと定義される。日本では『古事記』や『日本書記』などが神話に当たるが、ここで「危険神話」というタイトルを付けた理由は二つある。
一つは池田が著した書のタイトルをそのまま流用したことであるが、もう一つは「神仏習合」という普遍宗教仏教と基層神祗信仰の結合プロセスが「危険神話」に通じると感じたからである。
義江彰夫著『神仏習合』?岩波書店によると、仏教が伝来した当時の、地方社会の底辺は未開で共同体的な社会であり、農民・庶民のレベルは私有と罪の自覚が生まれるまでには、上層でも、平安末から鎌倉時代までの長い歴史を必要とした。
ここで、普遍仏教を「原発の安全文化」に、農民・庶民を「安全と安心を求める住民・マスメディア」に、上層を「電力事業者・政治家・規制当局」に、未開で共同体的な社会を「空気が決める日本社会」に、私有と罪の自覚を「事故の背後に潜む真の原因追究と夫々の責任の明確化」に、読み替えると「原発の危険神話」を理解しやすい。
この「空気が決める日本社会」について、池田は「公害病の虚実」、「暴走する正義」、「売り歩く放射能デマ」、「異端審問」などのタイトルで説明しているが、詳細は原著を参照されたい。

今後について


 齋藤が「はしがき」で社会科学者として以下のことを書いている。《原発をエネルギー政策の主軸としてきた政府や、原発事業を積極的に展開してきた電力会社ばかりでなく、原発事業に資金を供給してきた投資家や金融機関、原発施設を受け入れてきた地方自治体や地元住民、原発政策をサポートしてきた研究者は、将来に向かって、原発のリスクとコストに真正面から向き合い、“力強い意思決定”をすることが求められるであろう。それが、自然の摂理に挑む原発技術をこしらえてしまった人間の責任とも言える。長期的に明らかなことは、今後、原発がどのように展開するとしても、これから廃炉を迎える老朽原発について解体撤去を行い、これまでの原発事業が廃棄物として生み出してきた使用済み核燃料を処理しなければならない点である。短期的な要請と長期的な要請の両立を図ろうと思えば、何らかの形で収益プロジェクトとして成り立たせる必要がある。》
これは、科学の発達でもって原発技術を開発し、恩恵を受けている現代を生きる我々利害関係者全員が、「原発の危険神話」を神棚から引きずりおろして、冷静に、原発の、エネルギーのリスクとコストをバランスさせて評価して行かねばならないことを示唆している。

おわりに


 原発事故が起きてから2年半が経とうとしている。本屋を覗いてみても今や原子力関連の書籍が見易いところから隅に追いやられつつあるのを実感する。大飯原発2基のみが現在稼働し、他は運転していない。暑い夏もこの2年間で乗り切ったから、再稼働はなくても何も問題ないという考えが蔓延し始めている。
一方、新規制基準が7月8日から施行され、再稼働申請を各電力会社が動き始めた。電力料金の値上げも進行し、何かムードが若干変化しているが、本当に問題解決がなされたのであろうか。
事故後1年以内に発行され購入した本などを再度読み返し、一部について比較し、そこに書かれている内容がその後の状況変化にきちんと対応し、予見しているかを検証してみたのである。(T.Y記)

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