1.何が問題か−変わらぬ国民的性癖
日本の社会では「何か重大な決定を行うとき、まずマスコミがそれを政治問題化し、次いで『空気』が形成され、人々の自由な言動を金縛りにし、その『空気』に沿った非合理的決断がなされる」という事態が常態化している。そのような例は山本七平氏の「空気の研究」に紹介されている。 中でも太平洋戦争時の出来事は忘れられない。軍や政府の幹部たちはこの戦争に勝てるはずはないことを知っていながら、猛威を振るっていた「空気」に支配され、誰一人正論を主張できず、1億総玉砕何するものぞ、とばかりに負け戦に突入して行った。当時の幹部に何故間違った決定に反対しなかったのかと問えば、決まって「あの雰囲気ではああするしか仕方がなかった」という。今の原発論議も、マスコミが原発を政治問題化し、次いで「空気」を作って市民の自由な思考を金縛りにし、自然エネルギーの幻想を旗に立て、誤った決定をしようとしている。この世相は戦前と瓜二つであることに容易に気が付く。太平洋戦争と同じ轍を踏むようなことがあってはならない。誤った決定の助走は次に述べる「エネルギー・環境に関する選択肢」に関する「意見聴取会」問題である。
この「空気」に支配され易い国民的性癖は、戦後の左翼がかった日教組が“歴史教育”を消したため、国民をますます『空気』の呪縛にかかり易くしている。呪縛にかかっていると、かかっていることに気が付かないのが普通だから、始末に負えない。端的な例は、報道が偏っていてもそれを判別する国民の能力が弱っている事実である。「意見聴取会」における電力会社社員の発言を禁じる問題に対するマスコミや市民の反応などを見ると、国民的判断能力の劣化は顕著である。
2.「エネルギー・環境の選択肢」に関する意見聴取会の不可解な運営
数日前のことである。「エネルギー・環境の選択肢に関する意見聴取会」に電力会社の社員(中部電力と東北電力)が、政府が決めた手続きに従って意見聴取会に応募し採択され、議長の指示に従い考えを述べたところ、聴衆が“やらせ”だとして騒ぎだす一幕があった。古川担当大臣はこれを見てそれに毅然と答えるどころか、総理に泣きついて、今後は電力会社の社員は応募しても採択しないという決定を発表した。それもれっきとした理由ではなく、「誤解を招くようなことを避けるため」を理由とした。こんな情けないことがあってよいものか。古川大臣も野田総理も戦後教育の落とし子である。 意見聴取の案件はエネルギー・環境会議が決めた3つの選択肢(原発比率を0%、15%、20〜25%とした案)に関し国民の意見を聴く場である。選択肢に関する技術的問題は別に論じたいので、ここでは電力会社社員の発言を封じる政府の姿勢とそれを何とも思わないマスコミのモラルを問題にしたい。 (1)電力会社の社員の発言だけを政府が禁じるというのは、民主的手法を否定し、かつ言論の自由までも否定することになる由々しき問題である。おそらくそこにいたのは反対派のプロで、いつものごとく計画的に参加者になっていたと思われる。一般市民がやらせだと騒ぐわけがない。こういう反対派の不公正をマスコミは何故黙認するのか。これでは、民主的な手続きで意見聴取会を運営し国民の意見を広く聴取するという趣旨の自殺行為である。 (2)政府が素人の反対意見だけを取り上げ、電力生産に関与している専門家あるいは技術者の意見を意図的に排除しようとしている対応は、国民のご機嫌伺いに右顧左眄する民主党内閣の弱点である。ドイツは10年間で10兆円かけて太陽光発電を推進したが発電量はたったの3%、風力は13%である。自然エネルギーに期待できない実態が明らかになりつつあり、原子力復活問題も議論し出すという議員も出てきているという。(ブルームバーグ紙、7月17日)。2030年に、風も吹かず梅雨が長い日本で自然エネルギーが20%にも届かないときどうするのか。机上の理論家は現場の実態を知らない。補修困難など思いがけない問題が山ほど待ち受けている。 (3)エネルギー問題は国の根幹にかかわる問題だから、時の政権が関与できる範囲は“おのずから限定されるべき”である。今の計画案は“原発憎し”の感情論が基本になっている。専門知識や十分な情報は持っていない市民に正しい判断ができるはずはない。それを国民が興奮状態にある時に決めようというのは、国を誤る元ではないか。政権が変わったらこの矛盾はすぐに引っくり返されるはず。そうすると、いつまでたっても政策は安定せず、国が衰亡するだけである。情緒論に訴えず、技術論で行くべき。そもそも、政治家が専門家の意見を聞いて案を作り、それを国民に納得してもらうというのが本来の在り方で、国民の情緒で物を決めるのなら政治家はいらない。 (4)先だって、参議院予算委員会で、自民党の 斉藤 健 議員が枝野経産大臣に質問していた。上の3つの選択肢は「国の成長戦略を1%」という仮定での話。ところが政府の成長戦略は2%を目標にしている。2%の成長戦略を達成するとなると、脱原発どころではなくなる。原発は最大50%にしなくてはならない。枝野経産大臣のトリックの狙いは何か。日本の弱体化、原発の国際市場から日本が消える、産業の空洞化による雇用の喪失、これを一大事だと思わない人がいるとは信じたくないが、大事なことは平和憲法に生きるこの国が潰されないよう、我々一般市民は国の運営とマスコミの報道に細心の注意を払いながら、意見を主張して行かなければならない、と思う。 ところで、原発問題は国論を二分したまま終息の兆しは見られない。反原発派や組織の振る舞いを思うと、その理由は何かとなる。ここでは、原発反対派の民主的ルールを無視した組織的振る舞いと日本国民の劣化した正義感の2つを取り上げたい。この2つの視点は表にでない多くのことを考えさせてくれる。
3.誰も知らない小さな町の「原子力戦争」−「知の欠如は信の肥大化をもたらす」
2007年1月25日 四国の東洋町の田嶋裕起町長(当時)は「高レベル放射性廃棄物の最終処分施設の設置可能性を調査する区域」へ応募することを議会の全員協議会で表明した。それに対して賛成者は少なからずいたものの、民主的な議論は町外から集結した反核派の暗躍によってかき消され、結果的に勇気ある前町長はやり直し町長選で涙を飲んだ。その時の状況は、田嶋裕起著「誰も知らなかった小さな町の『原子力戦争』、ワック(株)」に詳しい。大多数の反対派が町外から押し寄せ、町長や推進派に対して誹謗中傷を浴びせた。マスコミは初め静観していたが、反対派に同調し処分場誘致派を徹底的に批判した。 類似の事態は政府の意見聴取会でも見られ、原発推進の委員は会議後プロと思われる反対派から相当の誹謗中傷を面前で浴びせられる。マスコミはこのことに一切触れない。マスコミの辞書には“義憤”という言葉は存在しないのか。この反対派や反対派に同調する人達の振る舞いは「知の欠如」が「信の肥大化」に繋がる状況を彷彿とさせる。高等教育を受けた人でも原子力が持つ根幹的意義を知ろうとしないで「信の肥大化」に走ってしまう。大江健三郎氏、坂本龍一氏、よりによって外国でバカ呼ばわりされた鳩山元総理もデモに参加し、センチメントをアジッていたという。「信の肥大化」もほどほどにしてもらいたい。4.失われた正義観−「義の欠如は情の肥大化をもたらす」
ここ1年の原発論議に欠けているもの、それは正義感であろう。正義とは何か、歴史に見るのが一番である。それには、山本七平著「現人神の創作者たち(上)」に紹介されている「靖献遺言」が最適であろう。 江戸時代に浅見炯斎によって書かれたこの著書は幕末の志士達にとって日本滅亡を防ぐ精神的バイブルであった。その一例が方孝孺とその一族が被った凄絶な惨殺である。歴史的な賢帝と称される永楽帝に招かれ詔勅をしたためることを乞われた彼は、永楽帝が甥の建文帝を殺して皇位についたことを許すことができず、皇帝の依頼を頑として聞き入れずに処罰・処刑された。理由は永楽帝が“纂臣”だったからである。 命に従わなかった報いは想像を絶した。一族八百四十七人が惨殺され、息子も彼の目前で無残な目にあって殺された。方孝儒は、頑として信念を変えず、磔にされただけでなく7日間もの間八つ裂きにされる拷問にあって死んだ。46歳の時である。幕末の志士達はこの「靖献遺言」を通して「ここに死して以て悠久の大義に生きる」ことの意味を体得していた。当時3千人いた志士達の大方は志半ばで幕府方に殺された。それでも日本の将来のための活動は止まなかった。 方孝儒はこのように“義”を絶対的規範として生きそして死んだ。ここには“義”以外に「何のため」という理由は存在しない。このような“気迫”とこのような“義”は我々にはもはやない。せめて、歴史を通してそれを持たないことを自覚しておくこと、我々にはこれしかできない。5.原子力は人と組織の品性をあぶり出した
この認識に立って、この1年間の原発論議を眺めてみると、“正義”は黙したまま、“打算”と“排除”の論理が記事としてどれだけ跳梁跋扈してきたか、情けない。どうして高い見識を持っているはずの記者たちがよく見れば非科学的な記事を平気で書いていられるのか、不思議である。彼らの多くが大学で高い教養を身につけている事実を思うとなおさらである。非科学的な記事であっても発行部数を伸ばしたいという気持ちは理解できるものの、彼ら自身が「正義を無視した、それがどうした?」という呪縛を何とも思わないのは残念である。 彼らの原発記事のあるものが品格に欠ける理由は、記事の中核に倫理観に基づいた中立性、公正・公平性、科学的技術的合理性などを追及する気迫や義務感が希薄だからであろう。「原子力ムラ」という差別語で能力ある有能な学者や研究者に“御用学者”の烙印を押し故意に陥れている記事、原子力マネーの受給者と称し弱い立場の学者を犯罪人かの様に扱った記事、などはその例である。 一方、反・脱原発の時流に便乗し上手に売名行為をした学識経験者、自然エネルギーの幻想を煽った評論家。戦後の経済発展に貢献した原子力産業、その恩恵に預かっているはずなのに、それを一顧だにせず、原発関係者を一方的に悪として何とも思わない行為。恥ずかしい行為ではないか。原発問題は図らずも人間と組織の暗部をあぶり出したようだ。結言:
我が国が原発憎さの感情論に基づいて国のエネルギー政策を決める構図は間違っている。自然エネルギーに期待するのは良いが、そしてそれが多量の電力を生産することは望ましいが、幻想で終わった場合の選択肢を残しておかないのは甚だまずい。だとすると原子力35%の選択肢は復活すべきである。ドイツやスペインが再生エネルギーへの補助金という財政負担に耐えられない事実は数年後には決定的になる。それは今後の日本の姿ではないか。(K.M)エネルギーと環境の選択肢に関する“意見聴取会”を考える −言論統制への歩み−
問題の提起
先日の「エネルギー・環境の選択肢に関する意見聴取会」に関する報道を見た人達は、そこにさまざまな光景、歴史を思い浮かべたのではないだろうか。役所の機能にも問題がないわけではないが、政府や報道の姿勢には、かつての日本が歩んだ道を思い浮かべる。無作為に抽選で選択された意見表明者が、たまたま電力会社の社員であるというだけで、エネルギー・環境問題に意見を言えないという、言論統制を政府が安易に進めようとしている。それに報道も賛意を表しているように見える。今、世界はエネルギー戦争の時代に入ろうとしている。世界のあちこちで起きている戦争の多くは、その原因はエネルギー問題と食糧問題である。人口最大の隣国、中国は西沙諸島、南紗諸島の大陸棚を押さえて、将来のエネルギー源を確保しようとし、既にこの地域では第一の強力となった軍事力を持って占領状態に持ち込み、この地域ではすでに戦争状態にあると言える。日本の領土、尖閣諸島も必ずやそういう状況になるであろうことは容易に推察できる。日本のエネルギーの道、シーレーンは危ういものとなりつつある。昭和の初期の状況にそっくりで、エネルギー戦争前夜の状況を呈している。選択肢と意見聴取会
今、私達が直面している課題は、福島第一での原子力事故を経験して、これまでのエネルギーと環境に関する“エネルギー基本計画”を早急に見直し、“原子力政策大綱”や“地球温暖化対策”、“グリーン政策大綱”を策定し直さなければならない、ということである。そこで、この数カ月の間、これからのエネルギーと環境の問題についての国としての方向を決める議論が展開されてきている。先月、6月29日には、エネルギー・環境会議において、この議論の論点となる「エネルギー・環境に関する選択肢」がまとめられた。3つの選択肢(シナリオ)が提示されている。いずれも原子力発電の割合をいくつにするかを論点とするもので、シナリオ?は“ゼロ”、シナリオ?は“15%”、シナリオ?は“20-25%”である。全国11か所で、このシナリオに対する意見を聴く聴取会が開催される予定であり、その後、さらに世論調査を実施して、これらを受けて8月末に政府として「革新的エネルギー・環境戦略」を決定するスケジュールとなっている。 この「意見聴取会」の目的は2つあるように思える。1つは、“一般国民は、提示したシナリオをどのようにとらえてくれるのかを知る”ことであり、1つは、“議論している状況が報道されることで、広く国民にシナリオの論点を知らしめる”ことであると考える。意見表明者の制限
さて、そこで先日の「意見聴取会」での問題である。この「意見聴取会」は、どのような意見が多いかを聴くものではなく、3つのシナリオについてそれぞれの支持者が意見を述べるものである。論点が原子力発電の割合であることから、原子力発電を担っている者が発言を求め応募することは当然あることである。それにもかかわらず、結局、3つの選択肢のある意見を支持する者を一部、排除することになってしまった。会場には、原子力発電への賛否、反対意見、すなわち“ゼロ”の選択肢を強く支持する者も来ていることであろう。そこで、いわゆる反対運動を行っているような過激な人には、大きな声で異を唱えるものもいるであろう。しかし、様々な意見を聴く「意見聴取会」であり、他の意見を聴く耳を持たないような輩こそ排除すべきもので、政府は、しかも大臣が、簡単に会場のやじに答えて、「意見聴取会」のやり方を見直す約束をしてしまったことには驚かされる。さらに、このような事態に直面し、言論統制を最も警戒しなければならない報道機関の報道を見ると、新聞各社の意見は、主に「国民広く意見を聴くと言う場で、なぜ電力会社の社員が意見を述べるのか、広く意見を聴く場にふさわしくない。」というものである。それは、次には原子力発電所を造っている会社の者は除く、電力会社の関連の会社のものは除く、・・・・と結局、原子力発電を推進している関連の者からの意見を封じてしまうことになる。今回は、電力会社の社員を排除するというものであるが。それは広く意見を聴くのではなく、耳に心地よい意見を聴く場としたいということにつながり、“みんなで渡れば怖くない”かつての戦争に進んだ道と同じ道を歩むことになうのではないか。政府の役人は、応募者から無作為に人選をしており、公正な手続きを取ってきたと思っていたであろう。それにも関らず、あたかも不公正に決めたかの扱いを受けてしまった。今度は所属会社で発言者を選別することになった。政府としては極めて危ない道に進むことを政治家から強要されることになったのである。残念なのは、役所、政府機関のトップである首相がよく調べもせず、この選択方法を過ちとして認め、言論統制まがいを行うことを決定したことである。 力のある組織は、発言もできる。電気事業連合会の八木会長は、「エネルギー政策は国を支える重要な基幹政策であり、消費者から産業界も含めて色んな意見を聞いてバランスのとれた議論をすべきだ。電力会社の社員だというだけで、個人の意見表明まで自粛しなければならないということには違和感を感じる。」と述べている。もっともな発言である。この報道は一部にしかなく、もっと多くの識者がこのような公正な発言をしなければならない。自由に意見を述べることと、決まったことに従い協力することとは異なるものである。私達は冷静に判断しなければならない。残念ながら、各電力会社の自粛発言やJAEAまでもが「意見聴取会」への応募の自粛を指示している。この電力会社の社員は、勇気ある発言をしたと思う。一方、なぜ、多くのエネルギー問題を理解している学者が発言をしないのか。報道の問題点
今回の「意見聴取会」での報道には、問題は2つある。1つは上述のエネルギー関連の企業に所属するものがエネルギー問題に発言することの機会を奪うということを支持していることであり、他の1つは発言内容がふさわしいか否かの問題である。報道では、「去年の福島の事故で、放射能の直接的な影響で亡くなった人はいない。5年、10年たっても変わらないと考えている。」と発言したことを問題として取り上げているかのようである。しかし、その内容はどうあれ、意見聴取会での個人の意見は、意見として決して封じてはならないものと考える。報道が個人の意見を表明する場での意見を個別にたたけば、誰もが発言を考え、真に真意を言えなくなるのではないか。報道はここでも言論の自由を自らが制限する道を取っているように思う。この意見表明者は、自らが捉えた事実と自分の見解を述べただけであり、誰かを誹謗中傷したわけでもなく、誰かに議論を吹っ掛けたわけでもなく、「意見聴取会」の発言としてふさわしくないものではない。「福島の地元へ配慮しろ」という意見もあるようだが、誰も言わない、言えない事実を冷静に発言したことに、自由な意見として勇気ある発言であったと思う。慮って言いたいことを言えなくする状況を作った、戦前の“空気”を私達は再び作ってはならない。“空気”は報道が作ってきたことを考えると、報道の姿勢は極めて重要である。 言論の自由を奪うと、どうなるのか。私達は遠くない過去に重大な経験を踏んできた。国民全体で真剣に考える必要があるのではないか。(H.M)ページのトップへ戻る
印刷(pdf)はこちらから IOJだより pdf1.何が問題か−変わらぬ国民的性癖
日本の社会では「何か重大な決定を行うとき、まずマスコミがそれを政治問題化し、次いで『空気』が形成され、人々の自由な言動を金縛りにし、その『空気』に沿った非合理的決断がなされる」という事態が常態化している。そのような例は山本七平氏の「空気の研究」に紹介されている。 中でも太平洋戦争時の出来事は忘れられない。軍や政府の幹部たちはこの戦争に勝てるはずはないことを知っていながら、猛威を振るっていた「空気」に支配され、誰一人正論を主張できず、1億総玉砕何するものぞ、とばかりに負け戦に突入して行った。当時の幹部に何故間違った決定に反対しなかったのかと問えば、決まって「あの雰囲気ではああするしか仕方がなかった」という。今の原発論議も、マスコミが原発を政治問題化し、次いで「空気」を作って市民の自由な思考を金縛りにし、自然エネルギーの幻想を旗に立て、誤った決定をしようとしている。この世相は戦前と瓜二つであることに容易に気が付く。太平洋戦争と同じ轍を踏むようなことがあってはならない。誤った決定の助走は次に述べる「エネルギー・環境に関する選択肢」に関する「意見聴取会」問題である。
この「空気」に支配され易い国民的性癖は、戦後の左翼がかった日教組が“歴史教育”を消したため、国民をますます『空気』の呪縛にかかり易くしている。呪縛にかかっていると、かかっていることに気が付かないのが普通だから、始末に負えない。端的な例は、報道が偏っていてもそれを判別する国民の能力が弱っている事実である。「意見聴取会」における電力会社社員の発言を禁じる問題に対するマスコミや市民の反応などを見ると、国民的判断能力の劣化は顕著である。
2.「エネルギー・環境の選択肢」に関する意見聴取会の不可解な運営
数日前のことである。「エネルギー・環境の選択肢に関する意見聴取会」に電力会社の社員(中部電力と東北電力)が、政府が決めた手続きに従って意見聴取会に応募し採択され、議長の指示に従い考えを述べたところ、聴衆が“やらせ”だとして騒ぎだす一幕があった。古川担当大臣はこれを見てそれに毅然と答えるどころか、総理に泣きついて、今後は電力会社の社員は応募しても採択しないという決定を発表した。それもれっきとした理由ではなく、「誤解を招くようなことを避けるため」を理由とした。こんな情けないことがあってよいものか。古川大臣も野田総理も戦後教育の落とし子である。 意見聴取の案件はエネルギー・環境会議が決めた3つの選択肢(原発比率を0%、15%、20〜25%とした案)に関し国民の意見を聴く場である。選択肢に関する技術的問題は別に論じたいので、ここでは電力会社社員の発言を封じる政府の姿勢とそれを何とも思わないマスコミのモラルを問題にしたい。 (1)電力会社の社員の発言だけを政府が禁じるというのは、民主的手法を否定し、かつ言論の自由までも否定することになる由々しき問題である。おそらくそこにいたのは反対派のプロで、いつものごとく計画的に参加者になっていたと思われる。一般市民がやらせだと騒ぐわけがない。こういう反対派の不公正をマスコミは何故黙認するのか。これでは、民主的な手続きで意見聴取会を運営し国民の意見を広く聴取するという趣旨の自殺行為である。 (2)政府が素人の反対意見だけを取り上げ、電力生産に関与している専門家あるいは技術者の意見を意図的に排除しようとしている対応は、国民のご機嫌伺いに右顧左眄する民主党内閣の弱点である。ドイツは10年間で10兆円かけて太陽光発電を推進したが発電量はたったの3%、風力は13%である。自然エネルギーに期待できない実態が明らかになりつつあり、原子力復活問題も議論し出すという議員も出てきているという。(ブルームバーグ紙、7月17日)。2030年に、風も吹かず梅雨が長い日本で自然エネルギーが20%にも届かないときどうするのか。机上の理論家は現場の実態を知らない。補修困難など思いがけない問題が山ほど待ち受けている。 (3)エネルギー問題は国の根幹にかかわる問題だから、時の政権が関与できる範囲は“おのずから限定されるべき”である。今の計画案は“原発憎し”の感情論が基本になっている。専門知識や十分な情報は持っていない市民に正しい判断ができるはずはない。それを国民が興奮状態にある時に決めようというのは、国を誤る元ではないか。政権が変わったらこの矛盾はすぐに引っくり返されるはず。そうすると、いつまでたっても政策は安定せず、国が衰亡するだけである。情緒論に訴えず、技術論で行くべき。そもそも、政治家が専門家の意見を聞いて案を作り、それを国民に納得してもらうというのが本来の在り方で、国民の情緒で物を決めるのなら政治家はいらない。 (4)先だって、参議院予算委員会で、自民党の 斉藤 健 議員が枝野経産大臣に質問していた。上の3つの選択肢は「国の成長戦略を1%」という仮定での話。ところが政府の成長戦略は2%を目標にしている。2%の成長戦略を達成するとなると、脱原発どころではなくなる。原発は最大50%にしなくてはならない。枝野経産大臣のトリックの狙いは何か。日本の弱体化、原発の国際市場から日本が消える、産業の空洞化による雇用の喪失、これを一大事だと思わない人がいるとは信じたくないが、大事なことは平和憲法に生きるこの国が潰されないよう、我々一般市民は国の運営とマスコミの報道に細心の注意を払いながら、意見を主張して行かなければならない、と思う。 ところで、原発問題は国論を二分したまま終息の兆しは見られない。反原発派や組織の振る舞いを思うと、その理由は何かとなる。ここでは、原発反対派の民主的ルールを無視した組織的振る舞いと日本国民の劣化した正義感の2つを取り上げたい。この2つの視点は表にでない多くのことを考えさせてくれる。