朝日の社説は、安倍政権は、川内原発を皮切りに、なし崩しに原発を主軸に戻そうとしている。・・・』という。どこがあいまいなのか。責任を負う組織が法律に沿った基準適合と言っているがゆえに安倍政権は原発を再稼動するとしているのだ。朝日の論調は現状を正しく説明していないばかりか、読書の心理を,まず政府は批判されるべきであるという方向に巧みに誘導しているのである。
はじめに
朝日新聞の社説は概ね論理があいまいでありながら、なぜか一方的に彼等の判断を押し付ける様なものが多い。8月3日付の「(社説)川内再稼働を前に安全神話を復活させるな」を読んでの感想も全く変わらない。文章を引用しながら、いかにおかしいか指摘して行きたい。(朝日)とある部分は朝日新聞の社説の引用、(IOJ)とある部分は我々の意見である。
(朝日)九州電力は10日にも川内(せんだい)原発( 鹿児島県)を再稼働する。国内の原発はすべて止まっており、運転は約2年ぶりとなる。しかし、再稼働にからむ動きを振り返ると、責任の所在のあいまいさが浮き彫りになる。東京電力福島第一原発で起きた事故の教訓も置き去りにして、新たな安全神話さえ生まれようとしている。安倍政権は、川内原発を皮切りに、なし崩しに原発を主軸に戻そうとしている。こうした動きは到底、容認できない。
(IOJ最初からおかしい。まず、責任の所在があいまいというが、責任は法律に基づき組織された原子力規制委員会と推進すべき経産省とがそれぞれ負っており、どこがあいまいなのか。事故の教訓は最大限取り入れられて安全基準が策定されており、どこが置き去りであり安全神話なのか。責任を負う組織が良いと言っているゆえに安部政権は原発を再稼働するとしている。朝日新聞の論調は現状を正しく説明していない。読者の心理をまず政府は批判されるべきであるという方向に巧妙に誘導しているのである。
■誰が責任を持つのか
(朝日)原子力規制委員会の田中俊一委員長は「新しい規制基準に適合しても事故は起きうる」「再稼働の是非について規制委は判断しない」と繰り返している。技術的観点から点検し、原発の事故リスクを一定以下にするのが規制委の任務で、原発の推進や縮小に言及することはしないという立場だ。
一方、安倍首相は「規制委が安全といった原発は、着実に再稼働する」と、再稼働の判断を事実上、規制委の基準適合審査に丸投げしている。しかも、基準適合を「安全」にすり替えて、規制委が安全を保証したかのように印象づける。これでは安全神話である。立地自治体の立場は、電力会社への「同意」である。
(IOJ)規制委員会が発足する前は、原子力の推進と安全規制を経産省が所掌していたため、津波の対策と運転継続の判断が適正に行われなかったのではないかとの疑念が生じ、また、従来から推進と規制の分離の必要性が国際的にも指摘されていた。原子力規制委員会の設置は、これらの問題点を克服するために行われた。規制に当たっては原発の有効利用が大前提であるべきという点では若干の理解不足が目立つ田中委員長ではあるが、規制を担当する組織の長として、「安全に関する法律や規制に適合しているかを判断するだけ」と述べるのは当然なのである。法律により要求されている安全性が確認され諸条件が満足されれば、電力会社が稼働を決定することも法律の趣旨から考えて当然なのである。安倍首相はこの事実を行政の長として述べたにすぎない。安全の専門家集団である規制委が基準に適合していると認めたものを、政治家が認めると「丸投げ」あるいは『「安全」にすり替える』と言うならば、いつも通りのまやかし論理と言わざるを得ない。田中委員長が規制について言っただけのことが、朝日新聞に掛ると、この様に「丸投げしている」というように論理が捻じ曲げられるのである。
(朝日)国民の過半は再稼働に反対している。それなのに、誰が決めているのか分からないまま、原発はやはり必要だと再稼働が決まってしまう。この進め方では、信頼しようがない。なぜ、この再稼働が必要なのか、原発が抱えるリスクとともに国民に語り、議論したうえで、首相が最終判断を示す。例えば、そんな手続きがほしい。あれほどの事故にもかかわらず、粛々と再稼働に進むのは民主主義社会にはそぐわない。
(IOJ)どのような対策をとられているのか示さずに、わずかな母数のアンケート調査をもとに「国民の過半は再稼働に反対している」と言いきる、このずる賢さこそ容認できない報道姿勢であると言えよう。脱原発を推進する民主党や都知事候補が惨敗したのをどう受け止めるのか。法治国家は、責任を負う諸組織がそれぞれその責任範囲内の事項を遂行するのであり、リスクも必要性も公表されている。それを精査せずに、全て時の政権がごまかしながら原発を稼働しようとしているとの論理にすり替えているのが朝日新聞の社説である。また、現行の進め方に異論があるのならば、法律や規則の修正を提案するべきであり、そのような道は法律的に開かれている。独善的な批判文章をまき散らすのではなく、何が悪いのか、どこをどのように修正すれば悪い点を解決できるのか、深く掘り下げたうえで、国会や行政の正規の手続きに基づいて改善を図るという本来の法治国家が採るべき道を提案することすら実行する能力もないのであろう。
■規制委にも問題あり
(朝日)事故の教訓を形にしたものの一つが、規制委である。独立性を高め、新しい規制基準をつくって既存原発のリスクを改めて審査している。だが、その規制委にも問題はある。川内原発で焦点になった巨大噴火への姿勢が一例だ。火山噴火予知連絡会会長の藤井敏嗣・東京大名誉教授は、カルデラと呼ばれる陥没地形ができるほどの巨大噴火について、「九電や規制委の態度は科学的とはいえない」と批判する。
「九電は噴火データを都合よく取捨選択し、平均9万年に1回などと主張する。規制委も追認した。だが、巨大噴火の確率や間隔を予測するモデルはまだない」と藤井さん。
「予測に限界があることなどを説明したうえで、それでも原発を動かすかを問うべきだ」福島第一原発では、当時の規制当局が、建設時の想定を超える津波が起きる可能性とその場合に炉心が損傷する恐れから、想定の見直しを指示していた。だが、東電は対策を講じず、当局も事実上、東電の判断を受け入れた経緯があった。
(IOJ)自然現象の影響は原発の立地条件の一つとして勘案されるべきものであるが、原則は有史の範囲内で経験した被害を考慮すべきであるということである。貞観津波は福島沖に1100年前に到達したことがわかった以上、考慮するのは当然だったと言えるのである。これについては多くの関係者が既に看過できない問題あるいは過失であった事を認めている。
火山の噴火についてはどう判断するのか。九州南部には桜島や霧島山など多くの火山があるが、これらの噴火で直接川内原発に火砕流が到達することはまずない。しかし、川内原発では火山活動を監視し、巨大噴火の兆候があれば運転を止め、核燃料を運び出すことも決める措置をとることにしており、工学的に十分対応できることを証明しているのである。
大津波を見過ごした例をあげて、既に施されている対策を調査あるいは理解せずに、諸説ある火山活動の影響についてのたった一人の意見を取り上げて、あたかも良い加減な判断を繰り返しているような主張を行う朝日の見識の無さが疑われるのである。
(朝日)国会の事故調査委員会(事故調)は▽見直し指示が非公開だった▽津波の高さを評価する手法は電力業界が関与した不透明な手続きで作られた▽東電は確率論を都合よく解釈し、津波の発生頻度を不当に低く見積もった、などの問題点を指摘した。一言で言えば、原子力ムラの理屈と閉鎖性の問題である。規制委は原子力ムラの文化と決別しているのか。そんな疑問が残る。
■顧みられない提言
政府や国会、民間、東電などが事故を調査し、様々な角度から事故前や事故時の問題点を指摘した。そのうち、国会の事故調は「国会による監視」を報告書の提言の第一に挙げた。
主眼は規制行政出直しの監視である。加えて政府、自治体、電力会社の役割が不明確だったり、緊急事態への対応力不足、指揮命令系統の混乱があったりした危機管理体制を見直す。電力会社に対する政府と国会による監視も強化する。そのために国会が実施計画を作り、進み具合を政府に報告させ、国民に公表する、という構想だった。
だが、国会事故調の実質的な活動は7カ月で終わった。提言から3年。事務局の一員だった石橋哲さんは「国会による実施計画はまったく具体化していない」と嘆く。国政選挙で、議員が大幅に入れ替わった事情もある。しかし、行政府をチェックするのは本来、国会の役割のはずだ。
報告書が指摘した課題には政府がその後、取り組んだとするものもあるが、チェックする仕組みは欠いたままだ。
国会事故調はまた、事故を「人災」と断じた。その背景として「自らの行動を正当化し、責任回避を最優先に記録を残さない不透明な組織、制度、それを許容する法的な枠組み」「無知と慢心、世界の潮流を無視し、国民の安全ではなく組織の利益を最優先する組織依存の思い込み」の存在を指摘した。こうした指摘が有効である限り、再稼働はあまりに危うい。
(IOJ)国会事故調は当時の民主党政権が主導した人事によって構成されており、いわゆる原子力反対派が多い。従って、その主張がすべて正しいとは言えないことが明らかになっている。例えば、地震で安全設備が壊れることを主張したい反原発派の委員が、福島第一号機では地震によりIC(非常用復水器)が破損したと主張したが、その後規制委員会(詳しくはここをクリック)等の調査ではこの主張は正しくないとされ覆されている。
事故調は、事故直後には事実を速やかに究明するために必要であるが、事故後既に4年以上も経過した現在は、専門家かから構成される規制委員会や有識者による審査会ができており、客観性も補強されているので、これ等専門組織によって事故への対策、安全性向上策などを検討させるのが本来の姿であろう。
行政府の監視を継続的に行うべしとの指摘は正しいが、チェック機能が本来的に国会に有るというのは、三権分立の思想が理解できていないのではないか。この様な奇怪な議論を展開する新聞が、廃刊されずに存在していることが不思議である。
おわりに
福島事故後に電力会社が施した安全対策は膨大なものであるが、朝日新聞の社説を読む限りそれを詳細に調べた痕跡はどこにも見当たらない。調査をおろそかにして勝手な意見を述べる朝日は、報道機関としての最低線の調査能力や科学的判断力が無く、国政の常識すら持ち合わせていないことが、ここでも明らかであると言えよう。朝日新聞の情緒に訴える作戦を見抜き、購読を止める読者の増えることを大いに期待したい。
(伊藤英二 吉村元孝共著)
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IOJだより pdf
はじめに
朝日新聞の社説は概ね論理があいまいでありながら、なぜか一方的に彼等の判断を押し付ける様なものが多い。8月3日付の「(社説)川内再稼働を前に安全神話を復活させるな」を読んでの感想も全く変わらない。文章を引用しながら、いかにおかしいか指摘して行きたい。(朝日)とある部分は朝日新聞の社説の引用、(IOJ)とある部分は我々の意見である。
(朝日)九州電力は10日にも川内(せんだい)原発( 鹿児島県)を再稼働する。国内の原発はすべて止まっており、運転は約2年ぶりとなる。しかし、再稼働にからむ動きを振り返ると、責任の所在のあいまいさが浮き彫りになる。東京電力福島第一原発で起きた事故の教訓も置き去りにして、新たな安全神話さえ生まれようとしている。安倍政権は、川内原発を皮切りに、なし崩しに原発を主軸に戻そうとしている。こうした動きは到底、容認できない。
(IOJ最初からおかしい。まず、責任の所在があいまいというが、責任は法律に基づき組織された原子力規制委員会と推進すべき経産省とがそれぞれ負っており、どこがあいまいなのか。事故の教訓は最大限取り入れられて安全基準が策定されており、どこが置き去りであり安全神話なのか。責任を負う組織が良いと言っているゆえに安部政権は原発を再稼働するとしている。朝日新聞の論調は現状を正しく説明していない。読者の心理をまず政府は批判されるべきであるという方向に巧妙に誘導しているのである。
■誰が責任を持つのか
(朝日)原子力規制委員会の田中俊一委員長は「新しい規制基準に適合しても事故は起きうる」「再稼働の是非について規制委は判断しない」と繰り返している。技術的観点から点検し、原発の事故リスクを一定以下にするのが規制委の任務で、原発の推進や縮小に言及することはしないという立場だ。
一方、安倍首相は「規制委が安全といった原発は、着実に再稼働する」と、再稼働の判断を事実上、規制委の基準適合審査に丸投げしている。しかも、基準適合を「安全」にすり替えて、規制委が安全を保証したかのように印象づける。これでは安全神話である。立地自治体の立場は、電力会社への「同意」である。
(IOJ)規制委員会が発足する前は、原子力の推進と安全規制を経産省が所掌していたため、津波の対策と運転継続の判断が適正に行われなかったのではないかとの疑念が生じ、また、従来から推進と規制の分離の必要性が国際的にも指摘されていた。原子力規制委員会の設置は、これらの問題点を克服するために行われた。規制に当たっては原発の有効利用が大前提であるべきという点では若干の理解不足が目立つ田中委員長ではあるが、規制を担当する組織の長として、「安全に関する法律や規制に適合しているかを判断するだけ」と述べるのは当然なのである。法律により要求されている安全性が確認され諸条件が満足されれば、電力会社が稼働を決定することも法律の趣旨から考えて当然なのである。安倍首相はこの事実を行政の長として述べたにすぎない。安全の専門家集団である規制委が基準に適合していると認めたものを、政治家が認めると「丸投げ」あるいは『「安全」にすり替える』と言うならば、いつも通りのまやかし論理と言わざるを得ない。田中委員長が規制について言っただけのことが、朝日新聞に掛ると、この様に「丸投げしている」というように論理が捻じ曲げられるのである。
(朝日)国民の過半は再稼働に反対している。それなのに、誰が決めているのか分からないまま、原発はやはり必要だと再稼働が決まってしまう。この進め方では、信頼しようがない。なぜ、この再稼働が必要なのか、原発が抱えるリスクとともに国民に語り、議論したうえで、首相が最終判断を示す。例えば、そんな手続きがほしい。あれほどの事故にもかかわらず、粛々と再稼働に進むのは民主主義社会にはそぐわない。
(IOJ)どのような対策をとられているのか示さずに、わずかな母数のアンケート調査をもとに「国民の過半は再稼働に反対している」と言いきる、このずる賢さこそ容認できない報道姿勢であると言えよう。脱原発を推進する民主党や都知事候補が惨敗したのをどう受け止めるのか。法治国家は、責任を負う諸組織がそれぞれその責任範囲内の事項を遂行するのであり、リスクも必要性も公表されている。それを精査せずに、全て時の政権がごまかしながら原発を稼働しようとしているとの論理にすり替えているのが朝日新聞の社説である。また、現行の進め方に異論があるのならば、法律や規則の修正を提案するべきであり、そのような道は法律的に開かれている。独善的な批判文章をまき散らすのではなく、何が悪いのか、どこをどのように修正すれば悪い点を解決できるのか、深く掘り下げたうえで、国会や行政の正規の手続きに基づいて改善を図るという本来の法治国家が採るべき道を提案することすら実行する能力もないのであろう。
■規制委にも問題あり
(朝日)事故の教訓を形にしたものの一つが、規制委である。独立性を高め、新しい規制基準をつくって既存原発のリスクを改めて審査している。だが、その規制委にも問題はある。川内原発で焦点になった巨大噴火への姿勢が一例だ。火山噴火予知連絡会会長の藤井敏嗣・東京大名誉教授は、カルデラと呼ばれる陥没地形ができるほどの巨大噴火について、「九電や規制委の態度は科学的とはいえない」と批判する。
「九電は噴火データを都合よく取捨選択し、平均9万年に1回などと主張する。規制委も追認した。だが、巨大噴火の確率や間隔を予測するモデルはまだない」と藤井さん。
「予測に限界があることなどを説明したうえで、それでも原発を動かすかを問うべきだ」福島第一原発では、当時の規制当局が、建設時の想定を超える津波が起きる可能性とその場合に炉心が損傷する恐れから、想定の見直しを指示していた。だが、東電は対策を講じず、当局も事実上、東電の判断を受け入れた経緯があった。
(IOJ)自然現象の影響は原発の立地条件の一つとして勘案されるべきものであるが、原則は有史の範囲内で経験した被害を考慮すべきであるということである。貞観津波は福島沖に1100年前に到達したことがわかった以上、考慮するのは当然だったと言えるのである。これについては多くの関係者が既に看過できない問題あるいは過失であった事を認めている。
火山の噴火についてはどう判断するのか。九州南部には桜島や霧島山など多くの火山があるが、これらの噴火で直接川内原発に火砕流が到達することはまずない。しかし、川内原発では火山活動を監視し、巨大噴火の兆候があれば運転を止め、核燃料を運び出すことも決める措置をとることにしており、工学的に十分対応できることを証明しているのである。
大津波を見過ごした例をあげて、既に施されている対策を調査あるいは理解せずに、諸説ある火山活動の影響についてのたった一人の意見を取り上げて、あたかも良い加減な判断を繰り返しているような主張を行う朝日の見識の無さが疑われるのである。
(朝日)国会の事故調査委員会(事故調)は▽見直し指示が非公開だった▽津波の高さを評価する手法は電力業界が関与した不透明な手続きで作られた▽東電は確率論を都合よく解釈し、津波の発生頻度を不当に低く見積もった、などの問題点を指摘した。一言で言えば、原子力ムラの理屈と閉鎖性の問題である。規制委は原子力ムラの文化と決別しているのか。そんな疑問が残る。
■顧みられない提言
政府や国会、民間、東電などが事故を調査し、様々な角度から事故前や事故時の問題点を指摘した。そのうち、国会の事故調は「国会による監視」を報告書の提言の第一に挙げた。
主眼は規制行政出直しの監視である。加えて政府、自治体、電力会社の役割が不明確だったり、緊急事態への対応力不足、指揮命令系統の混乱があったりした危機管理体制を見直す。電力会社に対する政府と国会による監視も強化する。そのために国会が実施計画を作り、進み具合を政府に報告させ、国民に公表する、という構想だった。
だが、国会事故調の実質的な活動は7カ月で終わった。提言から3年。事務局の一員だった石橋哲さんは「国会による実施計画はまったく具体化していない」と嘆く。国政選挙で、議員が大幅に入れ替わった事情もある。しかし、行政府をチェックするのは本来、国会の役割のはずだ。
報告書が指摘した課題には政府がその後、取り組んだとするものもあるが、チェックする仕組みは欠いたままだ。
国会事故調はまた、事故を「人災」と断じた。その背景として「自らの行動を正当化し、責任回避を最優先に記録を残さない不透明な組織、制度、それを許容する法的な枠組み」「無知と慢心、世界の潮流を無視し、国民の安全ではなく組織の利益を最優先する組織依存の思い込み」の存在を指摘した。こうした指摘が有効である限り、再稼働はあまりに危うい。
(IOJ)国会事故調は当時の民主党政権が主導した人事によって構成されており、いわゆる原子力反対派が多い。従って、その主張がすべて正しいとは言えないことが明らかになっている。例えば、地震で安全設備が壊れることを主張したい反原発派の委員が、福島第一号機では地震によりIC(非常用復水器)が破損したと主張したが、その後規制委員会(詳しくはここをクリック)等の調査ではこの主張は正しくないとされ覆されている。
事故調は、事故直後には事実を速やかに究明するために必要であるが、事故後既に4年以上も経過した現在は、専門家かから構成される規制委員会や有識者による審査会ができており、客観性も補強されているので、これ等専門組織によって事故への対策、安全性向上策などを検討させるのが本来の姿であろう。
行政府の監視を継続的に行うべしとの指摘は正しいが、チェック機能が本来的に国会に有るというのは、三権分立の思想が理解できていないのではないか。この様な奇怪な議論を展開する新聞が、廃刊されずに存在していることが不思議である。
おわりに
福島事故後に電力会社が施した安全対策は膨大なものであるが、朝日新聞の社説を読む限りそれを詳細に調べた痕跡はどこにも見当たらない。調査をおろそかにして勝手な意見を述べる朝日は、報道機関としての最低線の調査能力や科学的判断力が無く、国政の常識すら持ち合わせていないことが、ここでも明らかであると言えよう。朝日新聞の情緒に訴える作戦を見抜き、購読を止める読者の増えることを大いに期待したい。
(伊藤英二 吉村元孝共著)
印刷(pdf)はこちらから
IOJだより pdf
朝日の社説は、安倍政権は、川内原発を皮切りに、なし崩しに原発を主軸に戻そうとしている。・・・』という。どこがあいまいなのか。責任を負う組織が法律に沿った基準適合と言っているがゆえに安倍政権は原発を再稼動するとしているのだ。朝日の論調は現状を正しく説明していないばかりか、読書の心理を,まず政府は批判されるべきであるという方向に巧みに誘導しているのである。
はじめに
朝日新聞の社説は概ね論理があいまいでありながら、なぜか一方的に彼等の判断を押し付ける様なものが多い。8月3日付の「(社説)川内再稼働を前に安全神話を復活させるな」を読んでの感想も全く変わらない。文章を引用しながら、いかにおかしいか指摘して行きたい。(朝日)とある部分は朝日新聞の社説の引用、(IOJ)とある部分は我々の意見である。
(朝日)九州電力は10日にも川内(せんだい)原発( 鹿児島県)を再稼働する。国内の原発はすべて止まっており、運転は約2年ぶりとなる。しかし、再稼働にからむ動きを振り返ると、責任の所在のあいまいさが浮き彫りになる。東京電力福島第一原発で起きた事故の教訓も置き去りにして、新たな安全神話さえ生まれようとしている。安倍政権は、川内原発を皮切りに、なし崩しに原発を主軸に戻そうとしている。こうした動きは到底、容認できない。
(IOJ最初からおかしい。まず、責任の所在があいまいというが、責任は法律に基づき組織された原子力規制委員会と推進すべき経産省とがそれぞれ負っており、どこがあいまいなのか。事故の教訓は最大限取り入れられて安全基準が策定されており、どこが置き去りであり安全神話なのか。責任を負う組織が良いと言っているゆえに安部政権は原発を再稼働するとしている。朝日新聞の論調は現状を正しく説明していない。読者の心理をまず政府は批判されるべきであるという方向に巧妙に誘導しているのである。
■誰が責任を持つのか
(朝日)原子力規制委員会の田中俊一委員長は「新しい規制基準に適合しても事故は起きうる」「再稼働の是非について規制委は判断しない」と繰り返している。技術的観点から点検し、原発の事故リスクを一定以下にするのが規制委の任務で、原発の推進や縮小に言及することはしないという立場だ。
一方、安倍首相は「規制委が安全といった原発は、着実に再稼働する」と、再稼働の判断を事実上、規制委の基準適合審査に丸投げしている。しかも、基準適合を「安全」にすり替えて、規制委が安全を保証したかのように印象づける。これでは安全神話である。立地自治体の立場は、電力会社への「同意」である。
(IOJ)規制委員会が発足する前は、原子力の推進と安全規制を経産省が所掌していたため、津波の対策と運転継続の判断が適正に行われなかったのではないかとの疑念が生じ、また、従来から推進と規制の分離の必要性が国際的にも指摘されていた。原子力規制委員会の設置は、これらの問題点を克服するために行われた。規制に当たっては原発の有効利用が大前提であるべきという点では若干の理解不足が目立つ田中委員長ではあるが、規制を担当する組織の長として、「安全に関する法律や規制に適合しているかを判断するだけ」と述べるのは当然なのである。法律により要求されている安全性が確認され諸条件が満足されれば、電力会社が稼働を決定することも法律の趣旨から考えて当然なのである。安倍首相はこの事実を行政の長として述べたにすぎない。安全の専門家集団である規制委が基準に適合していると認めたものを、政治家が認めると「丸投げ」あるいは『「安全」にすり替える』と言うならば、いつも通りのまやかし論理と言わざるを得ない。田中委員長が規制について言っただけのことが、朝日新聞に掛ると、この様に「丸投げしている」というように論理が捻じ曲げられるのである。
(朝日)国民の過半は再稼働に反対している。それなのに、誰が決めているのか分からないまま、原発はやはり必要だと再稼働が決まってしまう。この進め方では、信頼しようがない。なぜ、この再稼働が必要なのか、原発が抱えるリスクとともに国民に語り、議論したうえで、首相が最終判断を示す。例えば、そんな手続きがほしい。あれほどの事故にもかかわらず、粛々と再稼働に進むのは民主主義社会にはそぐわない。
(IOJ)どのような対策をとられているのか示さずに、わずかな母数のアンケート調査をもとに「国民の過半は再稼働に反対している」と言いきる、このずる賢さこそ容認できない報道姿勢であると言えよう。脱原発を推進する民主党や都知事候補が惨敗したのをどう受け止めるのか。法治国家は、責任を負う諸組織がそれぞれその責任範囲内の事項を遂行するのであり、リスクも必要性も公表されている。それを精査せずに、全て時の政権がごまかしながら原発を稼働しようとしているとの論理にすり替えているのが朝日新聞の社説である。また、現行の進め方に異論があるのならば、法律や規則の修正を提案するべきであり、そのような道は法律的に開かれている。独善的な批判文章をまき散らすのではなく、何が悪いのか、どこをどのように修正すれば悪い点を解決できるのか、深く掘り下げたうえで、国会や行政の正規の手続きに基づいて改善を図るという本来の法治国家が採るべき道を提案することすら実行する能力もないのであろう。
■規制委にも問題あり
(朝日)事故の教訓を形にしたものの一つが、規制委である。独立性を高め、新しい規制基準をつくって既存原発のリスクを改めて審査している。だが、その規制委にも問題はある。川内原発で焦点になった巨大噴火への姿勢が一例だ。火山噴火予知連絡会会長の藤井敏嗣・東京大名誉教授は、カルデラと呼ばれる陥没地形ができるほどの巨大噴火について、「九電や規制委の態度は科学的とはいえない」と批判する。
「九電は噴火データを都合よく取捨選択し、平均9万年に1回などと主張する。規制委も追認した。だが、巨大噴火の確率や間隔を予測するモデルはまだない」と藤井さん。
「予測に限界があることなどを説明したうえで、それでも原発を動かすかを問うべきだ」福島第一原発では、当時の規制当局が、建設時の想定を超える津波が起きる可能性とその場合に炉心が損傷する恐れから、想定の見直しを指示していた。だが、東電は対策を講じず、当局も事実上、東電の判断を受け入れた経緯があった。
(IOJ)自然現象の影響は原発の立地条件の一つとして勘案されるべきものであるが、原則は有史の範囲内で経験した被害を考慮すべきであるということである。貞観津波は福島沖に1100年前に到達したことがわかった以上、考慮するのは当然だったと言えるのである。これについては多くの関係者が既に看過できない問題あるいは過失であった事を認めている。
火山の噴火についてはどう判断するのか。九州南部には桜島や霧島山など多くの火山があるが、これらの噴火で直接川内原発に火砕流が到達することはまずない。しかし、川内原発では火山活動を監視し、巨大噴火の兆候があれば運転を止め、核燃料を運び出すことも決める措置をとることにしており、工学的に十分対応できることを証明しているのである。
大津波を見過ごした例をあげて、既に施されている対策を調査あるいは理解せずに、諸説ある火山活動の影響についてのたった一人の意見を取り上げて、あたかも良い加減な判断を繰り返しているような主張を行う朝日の見識の無さが疑われるのである。
(朝日)国会の事故調査委員会(事故調)は▽見直し指示が非公開だった▽津波の高さを評価する手法は電力業界が関与した不透明な手続きで作られた▽東電は確率論を都合よく解釈し、津波の発生頻度を不当に低く見積もった、などの問題点を指摘した。一言で言えば、原子力ムラの理屈と閉鎖性の問題である。規制委は原子力ムラの文化と決別しているのか。そんな疑問が残る。
■顧みられない提言
政府や国会、民間、東電などが事故を調査し、様々な角度から事故前や事故時の問題点を指摘した。そのうち、国会の事故調は「国会による監視」を報告書の提言の第一に挙げた。
主眼は規制行政出直しの監視である。加えて政府、自治体、電力会社の役割が不明確だったり、緊急事態への対応力不足、指揮命令系統の混乱があったりした危機管理体制を見直す。電力会社に対する政府と国会による監視も強化する。そのために国会が実施計画を作り、進み具合を政府に報告させ、国民に公表する、という構想だった。
だが、国会事故調の実質的な活動は7カ月で終わった。提言から3年。事務局の一員だった石橋哲さんは「国会による実施計画はまったく具体化していない」と嘆く。国政選挙で、議員が大幅に入れ替わった事情もある。しかし、行政府をチェックするのは本来、国会の役割のはずだ。
報告書が指摘した課題には政府がその後、取り組んだとするものもあるが、チェックする仕組みは欠いたままだ。
国会事故調はまた、事故を「人災」と断じた。その背景として「自らの行動を正当化し、責任回避を最優先に記録を残さない不透明な組織、制度、それを許容する法的な枠組み」「無知と慢心、世界の潮流を無視し、国民の安全ではなく組織の利益を最優先する組織依存の思い込み」の存在を指摘した。こうした指摘が有効である限り、再稼働はあまりに危うい。
(IOJ)国会事故調は当時の民主党政権が主導した人事によって構成されており、いわゆる原子力反対派が多い。従って、その主張がすべて正しいとは言えないことが明らかになっている。例えば、地震で安全設備が壊れることを主張したい反原発派の委員が、福島第一号機では地震によりIC(非常用復水器)が破損したと主張したが、その後規制委員会(詳しくはここをクリック)等の調査ではこの主張は正しくないとされ覆されている。
事故調は、事故直後には事実を速やかに究明するために必要であるが、事故後既に4年以上も経過した現在は、専門家かから構成される規制委員会や有識者による審査会ができており、客観性も補強されているので、これ等専門組織によって事故への対策、安全性向上策などを検討させるのが本来の姿であろう。
行政府の監視を継続的に行うべしとの指摘は正しいが、チェック機能が本来的に国会に有るというのは、三権分立の思想が理解できていないのではないか。この様な奇怪な議論を展開する新聞が、廃刊されずに存在していることが不思議である。
おわりに
福島事故後に電力会社が施した安全対策は膨大なものであるが、朝日新聞の社説を読む限りそれを詳細に調べた痕跡はどこにも見当たらない。調査をおろそかにして勝手な意見を述べる朝日は、報道機関としての最低線の調査能力や科学的判断力が無く、国政の常識すら持ち合わせていないことが、ここでも明らかであると言えよう。朝日新聞の情緒に訴える作戦を見抜き、購読を止める読者の増えることを大いに期待したい。
(伊藤英二 吉村元孝共著)
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IOJだより pdf
はじめに
朝日新聞の社説は概ね論理があいまいでありながら、なぜか一方的に彼等の判断を押し付ける様なものが多い。8月3日付の「(社説)川内再稼働を前に安全神話を復活させるな」を読んでの感想も全く変わらない。文章を引用しながら、いかにおかしいか指摘して行きたい。(朝日)とある部分は朝日新聞の社説の引用、(IOJ)とある部分は我々の意見である。
(朝日)九州電力は10日にも川内(せんだい)原発( 鹿児島県)を再稼働する。国内の原発はすべて止まっており、運転は約2年ぶりとなる。しかし、再稼働にからむ動きを振り返ると、責任の所在のあいまいさが浮き彫りになる。東京電力福島第一原発で起きた事故の教訓も置き去りにして、新たな安全神話さえ生まれようとしている。安倍政権は、川内原発を皮切りに、なし崩しに原発を主軸に戻そうとしている。こうした動きは到底、容認できない。
(IOJ最初からおかしい。まず、責任の所在があいまいというが、責任は法律に基づき組織された原子力規制委員会と推進すべき経産省とがそれぞれ負っており、どこがあいまいなのか。事故の教訓は最大限取り入れられて安全基準が策定されており、どこが置き去りであり安全神話なのか。責任を負う組織が良いと言っているゆえに安部政権は原発を再稼働するとしている。朝日新聞の論調は現状を正しく説明していない。読者の心理をまず政府は批判されるべきであるという方向に巧妙に誘導しているのである。
■誰が責任を持つのか
(朝日)原子力規制委員会の田中俊一委員長は「新しい規制基準に適合しても事故は起きうる」「再稼働の是非について規制委は判断しない」と繰り返している。技術的観点から点検し、原発の事故リスクを一定以下にするのが規制委の任務で、原発の推進や縮小に言及することはしないという立場だ。
一方、安倍首相は「規制委が安全といった原発は、着実に再稼働する」と、再稼働の判断を事実上、規制委の基準適合審査に丸投げしている。しかも、基準適合を「安全」にすり替えて、規制委が安全を保証したかのように印象づける。これでは安全神話である。立地自治体の立場は、電力会社への「同意」である。
(IOJ)規制委員会が発足する前は、原子力の推進と安全規制を経産省が所掌していたため、津波の対策と運転継続の判断が適正に行われなかったのではないかとの疑念が生じ、また、従来から推進と規制の分離の必要性が国際的にも指摘されていた。原子力規制委員会の設置は、これらの問題点を克服するために行われた。規制に当たっては原発の有効利用が大前提であるべきという点では若干の理解不足が目立つ田中委員長ではあるが、規制を担当する組織の長として、「安全に関する法律や規制に適合しているかを判断するだけ」と述べるのは当然なのである。法律により要求されている安全性が確認され諸条件が満足されれば、電力会社が稼働を決定することも法律の趣旨から考えて当然なのである。安倍首相はこの事実を行政の長として述べたにすぎない。安全の専門家集団である規制委が基準に適合していると認めたものを、政治家が認めると「丸投げ」あるいは『「安全」にすり替える』と言うならば、いつも通りのまやかし論理と言わざるを得ない。田中委員長が規制について言っただけのことが、朝日新聞に掛ると、この様に「丸投げしている」というように論理が捻じ曲げられるのである。
(朝日)国民の過半は再稼働に反対している。それなのに、誰が決めているのか分からないまま、原発はやはり必要だと再稼働が決まってしまう。この進め方では、信頼しようがない。なぜ、この再稼働が必要なのか、原発が抱えるリスクとともに国民に語り、議論したうえで、首相が最終判断を示す。例えば、そんな手続きがほしい。あれほどの事故にもかかわらず、粛々と再稼働に進むのは民主主義社会にはそぐわない。
(IOJ)どのような対策をとられているのか示さずに、わずかな母数のアンケート調査をもとに「国民の過半は再稼働に反対している」と言いきる、このずる賢さこそ容認できない報道姿勢であると言えよう。脱原発を推進する民主党や都知事候補が惨敗したのをどう受け止めるのか。法治国家は、責任を負う諸組織がそれぞれその責任範囲内の事項を遂行するのであり、リスクも必要性も公表されている。それを精査せずに、全て時の政権がごまかしながら原発を稼働しようとしているとの論理にすり替えているのが朝日新聞の社説である。また、現行の進め方に異論があるのならば、法律や規則の修正を提案するべきであり、そのような道は法律的に開かれている。独善的な批判文章をまき散らすのではなく、何が悪いのか、どこをどのように修正すれば悪い点を解決できるのか、深く掘り下げたうえで、国会や行政の正規の手続きに基づいて改善を図るという本来の法治国家が採るべき道を提案することすら実行する能力もないのであろう。
■規制委にも問題あり
(朝日)事故の教訓を形にしたものの一つが、規制委である。独立性を高め、新しい規制基準をつくって既存原発のリスクを改めて審査している。だが、その規制委にも問題はある。川内原発で焦点になった巨大噴火への姿勢が一例だ。火山噴火予知連絡会会長の藤井敏嗣・東京大名誉教授は、カルデラと呼ばれる陥没地形ができるほどの巨大噴火について、「九電や規制委の態度は科学的とはいえない」と批判する。
「九電は噴火データを都合よく取捨選択し、平均9万年に1回などと主張する。規制委も追認した。だが、巨大噴火の確率や間隔を予測するモデルはまだない」と藤井さん。
「予測に限界があることなどを説明したうえで、それでも原発を動かすかを問うべきだ」福島第一原発では、当時の規制当局が、建設時の想定を超える津波が起きる可能性とその場合に炉心が損傷する恐れから、想定の見直しを指示していた。だが、東電は対策を講じず、当局も事実上、東電の判断を受け入れた経緯があった。
(IOJ)自然現象の影響は原発の立地条件の一つとして勘案されるべきものであるが、原則は有史の範囲内で経験した被害を考慮すべきであるということである。貞観津波は福島沖に1100年前に到達したことがわかった以上、考慮するのは当然だったと言えるのである。これについては多くの関係者が既に看過できない問題あるいは過失であった事を認めている。
火山の噴火についてはどう判断するのか。九州南部には桜島や霧島山など多くの火山があるが、これらの噴火で直接川内原発に火砕流が到達することはまずない。しかし、川内原発では火山活動を監視し、巨大噴火の兆候があれば運転を止め、核燃料を運び出すことも決める措置をとることにしており、工学的に十分対応できることを証明しているのである。
大津波を見過ごした例をあげて、既に施されている対策を調査あるいは理解せずに、諸説ある火山活動の影響についてのたった一人の意見を取り上げて、あたかも良い加減な判断を繰り返しているような主張を行う朝日の見識の無さが疑われるのである。
(朝日)国会の事故調査委員会(事故調)は▽見直し指示が非公開だった▽津波の高さを評価する手法は電力業界が関与した不透明な手続きで作られた▽東電は確率論を都合よく解釈し、津波の発生頻度を不当に低く見積もった、などの問題点を指摘した。一言で言えば、原子力ムラの理屈と閉鎖性の問題である。規制委は原子力ムラの文化と決別しているのか。そんな疑問が残る。
■顧みられない提言
政府や国会、民間、東電などが事故を調査し、様々な角度から事故前や事故時の問題点を指摘した。そのうち、国会の事故調は「国会による監視」を報告書の提言の第一に挙げた。
主眼は規制行政出直しの監視である。加えて政府、自治体、電力会社の役割が不明確だったり、緊急事態への対応力不足、指揮命令系統の混乱があったりした危機管理体制を見直す。電力会社に対する政府と国会による監視も強化する。そのために国会が実施計画を作り、進み具合を政府に報告させ、国民に公表する、という構想だった。
だが、国会事故調の実質的な活動は7カ月で終わった。提言から3年。事務局の一員だった石橋哲さんは「国会による実施計画はまったく具体化していない」と嘆く。国政選挙で、議員が大幅に入れ替わった事情もある。しかし、行政府をチェックするのは本来、国会の役割のはずだ。
報告書が指摘した課題には政府がその後、取り組んだとするものもあるが、チェックする仕組みは欠いたままだ。
国会事故調はまた、事故を「人災」と断じた。その背景として「自らの行動を正当化し、責任回避を最優先に記録を残さない不透明な組織、制度、それを許容する法的な枠組み」「無知と慢心、世界の潮流を無視し、国民の安全ではなく組織の利益を最優先する組織依存の思い込み」の存在を指摘した。こうした指摘が有効である限り、再稼働はあまりに危うい。
(IOJ)国会事故調は当時の民主党政権が主導した人事によって構成されており、いわゆる原子力反対派が多い。従って、その主張がすべて正しいとは言えないことが明らかになっている。例えば、地震で安全設備が壊れることを主張したい反原発派の委員が、福島第一号機では地震によりIC(非常用復水器)が破損したと主張したが、その後規制委員会(詳しくはここをクリック)等の調査ではこの主張は正しくないとされ覆されている。
事故調は、事故直後には事実を速やかに究明するために必要であるが、事故後既に4年以上も経過した現在は、専門家かから構成される規制委員会や有識者による審査会ができており、客観性も補強されているので、これ等専門組織によって事故への対策、安全性向上策などを検討させるのが本来の姿であろう。
行政府の監視を継続的に行うべしとの指摘は正しいが、チェック機能が本来的に国会に有るというのは、三権分立の思想が理解できていないのではないか。この様な奇怪な議論を展開する新聞が、廃刊されずに存在していることが不思議である。
おわりに
福島事故後に電力会社が施した安全対策は膨大なものであるが、朝日新聞の社説を読む限りそれを詳細に調べた痕跡はどこにも見当たらない。調査をおろそかにして勝手な意見を述べる朝日は、報道機関としての最低線の調査能力や科学的判断力が無く、国政の常識すら持ち合わせていないことが、ここでも明らかであると言えよう。朝日新聞の情緒に訴える作戦を見抜き、購読を止める読者の増えることを大いに期待したい。
(伊藤英二 吉村元孝共著)
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