朝日新聞の朝刊連載に「記者有論」というコラムがありますが、2015年1月16日付で編集委員の黒澤大陸とかいう人が「大災害への備え 理学と工学の違い超えよ」という面白い記事を書いていたので紹介します。なかなか良いことを書いておりますので、原文を図書館などで読んで頂ければ幸甚です。
原子力発電所の安全対策を取り上げているのですが、理学者と工学者との間で根源的な意見の対立があり、「宗教が違う」と表現されるほどにその溝が深いと指摘しています。
そもそも、原子力発電所は、事故・故障や自然災害が起こっても大きな事故に発展しないように基準が定められており、まさに工学の塊なのです。しかしながら、福島事故を契機として、地震や津波の想定など不十分だとする理学者の理想論だけが独り歩きをし、工学者の意見が脇に押しやられてしまっているように見えます。
安全基準では歴史上経験した自然現象は安全対策において考慮すべきことになっており、見過ごした貞観津波を見つけたからには、基準に照らして工学的な判断で対処すべき方策をとるのが事業者、官僚の仕事です。
原子炉の安全審査等にあたっては、学識経験者(主に大学の教授など)からなる委員会が、官僚の作文を追認するという手続きを長く行ってきたわけですが、肝心なこのような重要な問題を軽視したことがことの発端となったのだと考えられます。。
米国NRCでは官僚任せではなく、独立の高度の専門家からなる諮問委員会やそれを裁定する規制委員会が判断する仕組みになっていますので、このような見過ごしは起こらないように思われます。一方、日本の新しい安全規制体制はNRCの制度に近づきつつあるのですが理学系の学者の意見を取り入れようとする傾向もあり、この黒澤某の指摘する問題がどうしても顕在化してしまいます。
この様な現状に対して、黒澤某は「便利な暮らしを維持するために、どの程度のリスクまで社会が許容するのか、理学や工学ばかりではない幅広い議論が必要だ。」と述べ、「自然災害などの規模とそれが発生する可能性の大きさ、被害が出た場合の影響を分かりやすく整理することが求められる」との意見を展開しています。日本では、リスク論がなかなか定着せず、「絶対安全」が達成できない限り何もしてはならないという風潮がありますので、朝日新聞が率先してこの様な記事を発表することは、その影響力の大きさからいっても歓迎すべき態度だと考え、賞賛したいと思います。
大体反体制新聞というのは、政治家になれない、科学者にもなれない、企業家にもなれない、いわんや小説家にすらなれない物書きをする素人の集団で、したり顔をして共産主義国家の思想を世間にばらまく迷惑な騒音公害だと思っているのですが(笑い)、朝日でもたまには良いことを書くという例です。これまでバランスを欠いた記事を書き続け、国民の多くを混迷に陥れた朝日新聞が、「バランスの取れた幅広い議論が必要」と言いだしたのは、評価すべき変化とは思います。しかしながら、これで朝日新聞が今後は改心をしてバランスの良い記事を書き続けると思うのは早過ぎますし、これで、現場で死にもの狂いで努力をしていた吉田所長以下を貶めるような記事を書いた罪やウソで塗り固めて放射線影響を誇大に報道し風評被害をばら撒いた罪などがいささかも軽くなるものではありません。これからの朝日新聞の論調を引き続き注視してゆきたいと思います。
原子炉の安全審査等にあたっては、学識経験者(主に大学の教授など)からなる委員会が、官僚の作文を追認するという手続きを長く行ってきたわけですが、肝心なこのような重要な問題を軽視したことがことの発端となったのだと考えられます。。
米国NRCでは官僚任せではなく、独立の高度の専門家からなる諮問委員会やそれを裁定する規制委員会が判断する仕組みになっていますので、このような見過ごしは起こらないように思われます。一方、日本の新しい安全規制体制はNRCの制度に近づきつつあるのですが理学系の学者の意見を取り入れようとする傾向もあり、この黒澤某の指摘する問題がどうしても顕在化してしまいます。
この様な現状に対して、黒澤某は「便利な暮らしを維持するために、どの程度のリスクまで社会が許容するのか、理学や工学ばかりではない幅広い議論が必要だ。」と述べ、「自然災害などの規模とそれが発生する可能性の大きさ、被害が出た場合の影響を分かりやすく整理することが求められる」との意見を展開しています。日本では、リスク論がなかなか定着せず、「絶対安全」が達成できない限り何もしてはならないという風潮がありますので、朝日新聞が率先してこの様な記事を発表することは、その影響力の大きさからいっても歓迎すべき態度だと考え、賞賛したいと思います。
大体反体制新聞というのは、政治家になれない、科学者にもなれない、企業家にもなれない、いわんや小説家にすらなれない物書きをする素人の集団で、したり顔をして共産主義国家の思想を世間にばらまく迷惑な騒音公害だと思っているのですが(笑い)、朝日でもたまには良いことを書くという例です。これまでバランスを欠いた記事を書き続け、国民の多くを混迷に陥れた朝日新聞が、「バランスの取れた幅広い議論が必要」と言いだしたのは、評価すべき変化とは思います。しかしながら、これで朝日新聞が今後は改心をしてバランスの良い記事を書き続けると思うのは早過ぎますし、これで、現場で死にもの狂いで努力をしていた吉田所長以下を貶めるような記事を書いた罪やウソで塗り固めて放射線影響を誇大に報道し風評被害をばら撒いた罪などがいささかも軽くなるものではありません。これからの朝日新聞の論調を引き続き注視してゆきたいと思います。
朝日新聞の朝刊連載に「記者有論」というコラムがありますが、2015年1月16日付で編集委員の黒澤大陸とかいう人が「大災害への備え 理学と工学の違い超えよ」という面白い記事を書いていたので紹介します。なかなか良いことを書いておりますので、原文を図書館などで読んで頂ければ幸甚です。
原子力発電所の安全対策を取り上げているのですが、理学者と工学者との間で根源的な意見の対立があり、「宗教が違う」と表現されるほどにその溝が深いと指摘しています。
そもそも、原子力発電所は、事故・故障や自然災害が起こっても大きな事故に発展しないように基準が定められており、まさに工学の塊なのです。しかしながら、福島事故を契機として、地震や津波の想定など不十分だとする理学者の理想論だけが独り歩きをし、工学者の意見が脇に押しやられてしまっているように見えます。
安全基準では歴史上経験した自然現象は安全対策において考慮すべきことになっており、見過ごした貞観津波を見つけたからには、基準に照らして工学的な判断で対処すべき方策をとるのが事業者、官僚の仕事です。
原子炉の安全審査等にあたっては、学識経験者(主に大学の教授など)からなる委員会が、官僚の作文を追認するという手続きを長く行ってきたわけですが、肝心なこのような重要な問題を軽視したことがことの発端となったのだと考えられます。。
米国NRCでは官僚任せではなく、独立の高度の専門家からなる諮問委員会やそれを裁定する規制委員会が判断する仕組みになっていますので、このような見過ごしは起こらないように思われます。一方、日本の新しい安全規制体制はNRCの制度に近づきつつあるのですが理学系の学者の意見を取り入れようとする傾向もあり、この黒澤某の指摘する問題がどうしても顕在化してしまいます。
この様な現状に対して、黒澤某は「便利な暮らしを維持するために、どの程度のリスクまで社会が許容するのか、理学や工学ばかりではない幅広い議論が必要だ。」と述べ、「自然災害などの規模とそれが発生する可能性の大きさ、被害が出た場合の影響を分かりやすく整理することが求められる」との意見を展開しています。日本では、リスク論がなかなか定着せず、「絶対安全」が達成できない限り何もしてはならないという風潮がありますので、朝日新聞が率先してこの様な記事を発表することは、その影響力の大きさからいっても歓迎すべき態度だと考え、賞賛したいと思います。
大体反体制新聞というのは、政治家になれない、科学者にもなれない、企業家にもなれない、いわんや小説家にすらなれない物書きをする素人の集団で、したり顔をして共産主義国家の思想を世間にばらまく迷惑な騒音公害だと思っているのですが(笑い)、朝日でもたまには良いことを書くという例です。これまでバランスを欠いた記事を書き続け、国民の多くを混迷に陥れた朝日新聞が、「バランスの取れた幅広い議論が必要」と言いだしたのは、評価すべき変化とは思います。しかしながら、これで朝日新聞が今後は改心をしてバランスの良い記事を書き続けると思うのは早過ぎますし、これで、現場で死にもの狂いで努力をしていた吉田所長以下を貶めるような記事を書いた罪やウソで塗り固めて放射線影響を誇大に報道し風評被害をばら撒いた罪などがいささかも軽くなるものではありません。これからの朝日新聞の論調を引き続き注視してゆきたいと思います。
原子炉の安全審査等にあたっては、学識経験者(主に大学の教授など)からなる委員会が、官僚の作文を追認するという手続きを長く行ってきたわけですが、肝心なこのような重要な問題を軽視したことがことの発端となったのだと考えられます。。
米国NRCでは官僚任せではなく、独立の高度の専門家からなる諮問委員会やそれを裁定する規制委員会が判断する仕組みになっていますので、このような見過ごしは起こらないように思われます。一方、日本の新しい安全規制体制はNRCの制度に近づきつつあるのですが理学系の学者の意見を取り入れようとする傾向もあり、この黒澤某の指摘する問題がどうしても顕在化してしまいます。
この様な現状に対して、黒澤某は「便利な暮らしを維持するために、どの程度のリスクまで社会が許容するのか、理学や工学ばかりではない幅広い議論が必要だ。」と述べ、「自然災害などの規模とそれが発生する可能性の大きさ、被害が出た場合の影響を分かりやすく整理することが求められる」との意見を展開しています。日本では、リスク論がなかなか定着せず、「絶対安全」が達成できない限り何もしてはならないという風潮がありますので、朝日新聞が率先してこの様な記事を発表することは、その影響力の大きさからいっても歓迎すべき態度だと考え、賞賛したいと思います。
大体反体制新聞というのは、政治家になれない、科学者にもなれない、企業家にもなれない、いわんや小説家にすらなれない物書きをする素人の集団で、したり顔をして共産主義国家の思想を世間にばらまく迷惑な騒音公害だと思っているのですが(笑い)、朝日でもたまには良いことを書くという例です。これまでバランスを欠いた記事を書き続け、国民の多くを混迷に陥れた朝日新聞が、「バランスの取れた幅広い議論が必要」と言いだしたのは、評価すべき変化とは思います。しかしながら、これで朝日新聞が今後は改心をしてバランスの良い記事を書き続けると思うのは早過ぎますし、これで、現場で死にもの狂いで努力をしていた吉田所長以下を貶めるような記事を書いた罪やウソで塗り固めて放射線影響を誇大に報道し風評被害をばら撒いた罪などがいささかも軽くなるものではありません。これからの朝日新聞の論調を引き続き注視してゆきたいと思います。