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SEJ 日本のエネルギーを考える会

IOJだより 原子力規制 編集局

福島原発事故を受けて、当時の民主党政権下で原子力規制委員会の設置が決定されました。
本年7月から再稼働にむけて審査が開始されましたが、本当に適切でバランスのとれたものでしょうか。

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81号  「原発の危険神話」と「危険神話の崩壊」


カテゴリ:  原子力安全    2013-8-21 11:20   閲覧 (2377)

はじめに


福島原発事故が起きてから書店の店頭には事故絡みの書が多く並んでいた。その中で「危険神話」なる類の筆頭株は小出裕章著『原発はいらない』?幻冬舎ルネッサンスであろう。それに対極する書は池田信夫著『原発「危険神話」の崩壊』?PHP研究所と思う。中立的立場を自ら標榜する代表例として齋藤誠『原発危機の経済学』?日本評論社ではないだろうか。本稿はこの三冊の書を主に引用しながら、原発の危険神話を俯瞰してみた。

危険・リスクについて


池田は「ハザード」と「リスク」の差異に言及している。《環境リスクを評価する上で重要なのは、ハザード(化学物質の一定量あたりの毒性)とリスク(毒物の総量)を区別することである。化学物質を原発事故に置き換えると、事故の1回あたりのハザードは非常に大きいが、そのリスクは火力より小さい。しかし日本人の殆どがいま放射能を恐れている。日本での原発事故の直接的な死者はゼロだが、この50年間でJCO事故での2人を含めて1年間に0.04人が死んだことになる。落雷で死ぬリスクが原発事故の500倍であることは意識しない。このようなバイアス(目立つサンプリングを代表とみなす傾向)は明らかに法則性があり、原因は進化心理学で分かっており、人々は感情で動くのだ。人間は常に多くのリスクに晒されているので安心だという情報には反応しないが、危険だという情報には敏感だ。》であるが、我々はこのバイアスに注目したい。
一方、小出は、《原発周辺の住民にとっては、急性死の危険性があります。建設中の山口県・上関原発で破局的事故が起きた場合、50万人〜120万人が癌で死亡すると。》と言う。もっともらしい多くの仮定を立てて推論しているが、あり得ない帰結であり、これは論外である。
「危険・リスク」の反語が「安全」と定義すれば、小出は「安全な原発などはない」と断言する。《泊原発での火災事故や配線切断事件、女川原発での制御棒脱落や建屋の火災、志賀原発での定期点検中の臨海事故、美浜原発での二次冷却系配管の破損、蒸気漏れ事故など、全国各所の原発は、地震や津波とは無関係に、しばしば事故を引起している。設計自体のミスや、人為的なミスも少なくない。その事故やミスがどんな結果をもたらすかは、今回の福島第一原発事故の被害がどこまで深まり、広がっていくか分からないように、それこそ「想定外」と言っていい。「安全な原発などはない」は、「すべての原発は危険」と同じ意味だ。》と主張するが、まさに上述のバイアスでもって結論に導いていることが分る。



これに対して齋藤は《今般の原発危機が市民生活に突き付けたもっとも厄介な想定外の事態の一つには、放射線に被曝する可能性が含まれている。》と述べ、《日本政府が計画的避難区域の設定の際に採用した国際放射線防護委員会(ICRP)の国際基準は年間20ミリシーベルトなので、ICRPの中で最も高い水準となったが、意見が二分した。》と紹介している。《政府や専門家は、人間のリスク認識パターンの本質的な特性を十分に配慮し、客観的な確率に関する情報を、真摯に、誠実に、丁寧に説明しながら、具体的な対応策の可能性と、依然として残るリスクに関して正確な知識を提供すべきだ。その上で最後は普通の人々に意思決定を委ねるべきだ。》と結び、「神話」から「実話」に移行していることに注目したい。

自然エネルギーについて


 池田は、《環境省が発表した「再生可能エネルギーで原発40基分の発電が可能だ」の試算結果は、補助金を前提にしたコスト計算であり、事業としては赤字である。》と断じている。原発事故が起きた時は民主党政権であり「再生エネ法は電力自由化の道を閉ざす」、「スマートグリッドの可能性」、「ガラパゴス化するスマートメータ」など、時の政権の政策を、池田が批判していることに耳を傾けたい。


 小出は、「新エネルギーにこだわりすぎると、原発は生き延びてしまう」のタイトルで《自然エネルギーの活用は反対しないが、原発をやめても今のような電気を使う生活を続けたいために、自然エネルギーの駆使には共感できないし、新エネルギーは当面大きな電源にはなりそうにもない。》と、それなりに逃げの手を打っていることに気づく。
 齋藤は、自然エネルギーに関して一切言及していない。



いの一番の主張について


 池田は、《二つの神話:?「安全神話」:最悪の事態でも炉心溶融は起こらない、?「危険神話」:炉心溶融が起こると数万人が死ぬ、が崩壊したのだ。》と書き始めている。《このうち?はあまり気づかれないが、不幸な出来事の多かった中で唯一のグッドニュースである。放射能の健康被害は、従来の想定よりはるかに小さかったのだ。しかし、このような大事件のあと「危険神話」が一人歩きするのだ。こうした状況を改善するには、人々の心理的な安心を際限なく求めるのではなく、何が客観的に安全かという科学的な基準を再検討する必要がある。原発は危険だが、そのリスクを他の発癌物質や環境汚染と同じ基準で比較し、費用対効果を最適化すべきだ。》と正論を述べている。しかしコストだけではじき出せない、「故郷に戻れない」、「離散した生活」での精神的な苦痛などについて更に議論すべきではないだろうか。


 齋藤は、「今般の原発危機においては、原発危機に前もって備えるプロセスにおいて厳しい自然環境に果敢に挑んできた経営の姿が、少なくとも外側の人間に見えてこなかったことこそが、原発危機の背景に対する、どうしようもない不信を招いてしまった根本の理由ではないだろうか」と結び、芥川龍之介の言葉「自然は人間に冷淡なり。・・・」を紹介している。厳しい指摘ではあるが、我々は肝に銘じる必要があろう。
 さらに齋藤は、「過去と将来の断絶」のタイトルで以下の主張をしている。《福島第一原発が危機的な状況になったという報に接して、原発の運営に責任を持つ東電関係者も、原発行政の責任を担っている経産省関係者も、「あれほど大きな地震や津波が到来して、すべての非常用電源が落ちてしまったのは、まったく想定していなかった」と一様に口をそろえた。一方、原発施設の周辺に住む人々やその地域の市町村関係者は、「絶対に安全だと言っていたのに、このようなことが起きるとは全く信じられない」と怒りの声を東電や政府に向けた。ベクトルの方向がまったく正反対に見える、これら二つの発声には、たった一つ、本質的なところで共通点を有している。・・・「これまでに意志決定を積み重ねてきた古い自分」を完全に否定して、突如として「これから意志決定を行おうとする新しい自分」を肯定しているのである。・・・苛酷な自然環境を想定して懸命に技術的な挑戦を行うことは、「『想定外』のことが起きたときに、どのようなことが生じるのか」についても、徹底して考えておくことである。》と続けている。これはまさに「安全神話」、いや「危機神話」の根源的な論点であり、現在を生きる我々に対して自分たちの行為を見つめ直すべきヒントを与えているのではないだろうか。



神話について


 古今東西問わず、神話というものが存在してきた。神話とはストーリー性のある物語形式であり、人間を取り巻く種々の過去の出来事を指すと定義される。日本では『古事記』や『日本書記』などが神話に当たるが、ここで「危険神話」というタイトルを付けた理由は二つある。
一つは池田が著した書のタイトルをそのまま流用したことであるが、もう一つは「神仏習合」という普遍宗教仏教と基層神祗信仰の結合プロセスが「危険神話」に通じると感じたからである。
義江彰夫著『神仏習合』?岩波書店によると、仏教が伝来した当時の、地方社会の底辺は未開で共同体的な社会であり、農民・庶民のレベルは私有と罪の自覚が生まれるまでには、上層でも、平安末から鎌倉時代までの長い歴史を必要とした。
ここで、普遍仏教を「原発の安全文化」に、農民・庶民を「安全と安心を求める住民・マスメディア」に、上層を「電力事業者・政治家・規制当局」に、未開で共同体的な社会を「空気が決める日本社会」に、私有と罪の自覚を「事故の背後に潜む真の原因追究と夫々の責任の明確化」に、読み替えると「原発の危険神話」を理解しやすい。
この「空気が決める日本社会」について、池田は「公害病の虚実」、「暴走する正義」、「売り歩く放射能デマ」、「異端審問」などのタイトルで説明しているが、詳細は原著を参照されたい。

今後について


 齋藤が「はしがき」で社会科学者として以下のことを書いている。《原発をエネルギー政策の主軸としてきた政府や、原発事業を積極的に展開してきた電力会社ばかりでなく、原発事業に資金を供給してきた投資家や金融機関、原発施設を受け入れてきた地方自治体や地元住民、原発政策をサポートしてきた研究者は、将来に向かって、原発のリスクとコストに真正面から向き合い、“力強い意思決定”をすることが求められるであろう。それが、自然の摂理に挑む原発技術をこしらえてしまった人間の責任とも言える。長期的に明らかなことは、今後、原発がどのように展開するとしても、これから廃炉を迎える老朽原発について解体撤去を行い、これまでの原発事業が廃棄物として生み出してきた使用済み核燃料を処理しなければならない点である。短期的な要請と長期的な要請の両立を図ろうと思えば、何らかの形で収益プロジェクトとして成り立たせる必要がある。》
これは、科学の発達でもって原発技術を開発し、恩恵を受けている現代を生きる我々利害関係者全員が、「原発の危険神話」を神棚から引きずりおろして、冷静に、原発の、エネルギーのリスクとコストをバランスさせて評価して行かねばならないことを示唆している。

おわりに


 原発事故が起きてから2年半が経とうとしている。本屋を覗いてみても今や原子力関連の書籍が見易いところから隅に追いやられつつあるのを実感する。大飯原発2基のみが現在稼働し、他は運転していない。暑い夏もこの2年間で乗り切ったから、再稼働はなくても何も問題ないという考えが蔓延し始めている。
一方、新規制基準が7月8日から施行され、再稼働申請を各電力会社が動き始めた。電力料金の値上げも進行し、何かムードが若干変化しているが、本当に問題解決がなされたのであろうか。
事故後1年以内に発行され購入した本などを再度読み返し、一部について比較し、そこに書かれている内容がその後の状況変化にきちんと対応し、予見しているかを検証してみたのである。(T.Y記)

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ウィトゲンシュタイン哲学の出発点


 「論理哲学論考」(矢野茂樹著、『論理哲学論考を読む』、筑摩書房、2006)は天才哲学者といわれるウィトゲンシュタインの代表的著作である。その冒頭に、「世界は事実の総体であって事物の総体ではない」という宣言ともとれる記述がある。彼は、その認識を出発点とし、世界の構造や可能性としての新しい世界の構成方法について論考を進めている。
この表現の中で問題となるのは“事実”と“事物”の違いである。“事物”は端的に五感に触れる物体と思えば良い。しかし、“事実”をどう理解するかは容易でなく、目に見えない物同士の関係や物体の性質や配置や色・形なども含まれる。それをすべて言葉で表現せよ言われると誰しも困惑するであろう。現在目の前で起きている諸事実そのものが良い例であるというしかない。大事なことは、ウィトゲンシュタインが「世界の構造と創造の仕方を論じるにはここから出発するしかない」考えた点にある。

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3.11の過酷事故後の福島第一原子力発電所の汚染水の現状の問題、課題等を整理すると目下の問題、関心事等は
(1)事故後の炉心冷却水のように汚染されたものが貯蔵、保管されているが、その量が非常に多いので、適切に処理されて環境に影響ないように出来るのか
(2)汚染された水に地下水が混入し、ますます汚染水の量が増えていき、処理しきれなくなるのではないか
(3)貯蔵タンク、配管などから汚染水が漏れ出して、環境を汚染するのではないか
(4)処理、浄化した水を海に放出した際の魚貝等、環境への影響はどうなるのか
である。
これらについて、最近の国で開かれた汚染水処理対策委員会での資料などを基に整理してみた。

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ウィトゲンシュタインに目から鱗が落ちるような“世界観”を教えてもらった。その一つは“無限大”をどう考えるかである。もう一つは、世界が事実から成り、事実は対象からなり、対象には性能規定的側面と仕様規定的側面があり、それを究明すれば新しい可能性を創造できるというものである。後者はすぐに規制の在り方や安全基準の根幹の妥当性を検証する手段を提供するが、ここでは前者について検討したい。

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はじめに


 福島事故を受け原子力関係者は多いに自戒するべきですし、実際謙虚に反省し対応していますが、それとともに理不尽な言動には適切にまたタイムリーに反論する必要があるのは言を俟ちません。しかし、反論そのこと自体が一種の心理的な自己束縛になってしまい、原子力のフィールドだけで攻防してしまい勝ちです。
 これは一般国民から眺めると、原子力関係者の自己の利益保全としか見えないきらいがあるのが残念です。勿論、これは誤解なのですがそういう受け止め方をされている、ということにも考えを及ぼすべきでしょう。ここでは、原子力とは関係のない世間一般の日本国民という視座に戻って、まず「今の日本にとって何がより優先度が高いのか」を考えてみたいと思います。
 そうしますと現状においては以下の3つではないでしょうか。
1.安全・安心について、日本全体をみてもっとバランスよく気配りをしたい。
2.経済力を再起させ、活気ある社会をとりもどしたい。特に若い人に希望を与えたい。
3.日本という民主主義国家を守りたい。この温和で仲の良い社会は守りたい。


まず1.「日本全体でバランスのいい安全安心」について


 国外でみればアルジェリアで露見したように、国外邦人が受けている安全・安心は脆弱です。国内でみれば、例えば、母親にとって子供の安全・安心は、何よりも大切なことでしょう。食べ物が汚染されている可能性がちょっとでもあれば、安全基準はともかく、不安から食べさせたくないと考えるのが母性愛でしょう。それは自然なことです。それではバランスは誰が考えるのでしょうか。普通の母親にはバランスまでは分からないでしょう。前政権は食物の放射能基準を医学的にも国際的にも根拠のない十分の一に引き下げたり、汚染された地域の安全性をことさら誇張し、福島の母親を不安に陥れるだけでした。やはり国やマスコミなどが適切な情報を流し安心をしてもらわなければならないのです。そのようなバランスのとれた情報の発信は国の責任なのです。
 また国内の老人・母子家庭・幼児の守りなどの「弱者」にはえてして薄いものです。その反面、弱者をよそおう口達者には口封じのためか配慮がありすぎにも見えます。
 もとより使える原資は有限なのですから、無原則的で野放図な安全性の向上を一方的に一途に図るのは幼稚な理想主義です。もっと広く日本全体を見てから資金の「均整のとれた良い配分」をしなくてはいけません。また各対策の「有効性」もちゃんと吟味しないといけません。そういう実利的(プラグマチック)で現実的な発想をするのが大人というものでしょう。
 

規制委は誠実に努力されておいでですが、ごく一部委員の「一見潔癖な、完全をもとめすぎる思考様式」は残念です。IOJだより63号で述べたような「活断層」の扱いなどがいい例です。日本全体を考えず、提案内容の有効性も評価せず、一途に「どんどん、やれやれ」では困ります。今から見れば民主党の「マニフェスト」は選挙に勝つためだけの虚構でしたが、早晩似たような決着をみることを危惧します。ぜひ制以智力(無量寿経より)していただきたいものです。勿論、希望もあります。「今の規制委員会は安全にはバランス(感覚や判断)がありません」と言いきっている委員もいるようです。こういう意見がいずれ委員会全体に反映される期待があります。また、「基準に沿った」安全の判断は規制委員会の仕事ですが、「どのような基準にするか」自体はバランスのとれた考えが必須で、それは政府または国会の職務でしょう。


 ここでいうバランスとは、例えば、「原子力の安全向上」と「自然災害に対する対応能力向上」との2者の内容・コストのバランスなどをふくみます。また、「自由」と「責任」、そして「権利」と「義務」などのバランスも含みます。いずれもどちらか一方だけに焦点を合わせ主張するのは不合理なことです。




2.「経済力再起、活気ある希望のもてる社会」について


?とにもかくにも「雇用拡大」。
?「とくに若い人に夢を与える、希望の創生」、それは在来の延長でなく新技術を核にしたものかもしれません。
?さらに、「日本全体からみた総合力の向上」、それは手始めに縦割り行政解消などをめざすことなどが考えられます。
以上の3点でしょう。
 特に、ここ20年続く不況で、どうしても希望を持ちにくい日本社会において、青少年に元気・勇気・活気をあたえるのは我々大人の避けてはならない責務です。その視点を(幼稚でない)大人は忘れてはいけません。


3.「日本という民主主義国家を守ること」は悩ましい問題です。



 これは近隣に現実に存在する独裁国家から守るということでもあるからです。この相互関係は放置・黙認しておくと、独裁国に対して、民主主義国は圧倒的に弱いからです。独裁国家の指導者はどんな悪事もできますし、相手を打倒したい欲望にかられやすく、またその行動は著しく俊敏で勇猛果敢です。これに対して考えられる方策は、王手からめ手で多様におこなうことしかないでしょう。


原子力の社会関連度


 以上の3点に関し、後述のように原子力はいずれも深く関わっています。そのことが原子力のもつ良い面の本質を示しているのではないかと思います。産業連関という言葉がありますが、いってみれば原子力は社会連関度が非常に高いのでしょう。(ですから原子力を単に発電という面だけからみたり、論じるのは狭量だと思います。)
1.原子力発電の導入は、そもそも日本の致命的弱点であったエネルギー・セキュリティを確保しようという安全・安寧をめざしたものでした。不幸にも福島事故を起こし、住民はじめ国民にかえって不安を惹起してしまったことは慙愧の念に堪えませんが、それでもなおエネルギー・セキュリティの確保という使命は守らないと日本は依然として危険なのです。
2.原子力発電の持つ雇用の広さは強調してもいいことです。関連産業への波及効果が非常に大きいのです。それは他の発電方法とは比較になりません。これは太陽光発電や風力発電にとっては弱点のひとつでもあります。
3.独裁国家に対峙するには、スパイ防止法などの法整備とともに、いろいろな観点からの各種の「抑止力」が必須になります。「悪事を思いとどまらせるいろいろな力をこちらが持つ」ことが大事だからです。その一翼をになうのが原子力であるのは厳然たる事実なのです。

結び


 以上のような論旨をもっとはっきり国民に言い、理解賛同を得るべき時期にきている、と思われます。あまりに黙りこくっているのは、もはや害の方が多くなってきており、危険水域に達しているという認識が必要でしょう。その意味から安倍政権は覚醒していて、努力を積まれておいでと見えます。安倍さんご自身の自覚も明確に受け取れます。それは前回の政権時の攻防を書いた「約束の日―安倍晋三試論」小川栄太郎 扶桑社(2012.11刊)にありますし、さかのぼれば「悪と徳と、岸信介と未完の日本」福田和也 扶桑社 (2012.4刊)に源流をみることができるでしょう。
 IOJはいままでエネルギー問題と教育問題を扱ってきました。しかしこの2件、エネルギーと教育は孤高を持して単独で存在することはできず、当然ながら周辺の環境と影響しあっています。
 従って議論が進んでいくと不可避的に周辺に視野が広がっていきます。いわば放大光明でしょう。その周辺には当然ながら近隣諸国もはいりましょう。それは単に地政学上のことに留まらないでしょう。そういう観点が、そろそろ視野にはいってきたように思えます。
(M.T記)
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54号 原子力の理解・共感へむけて


カテゴリ:  原子力安全    2012-10-31 16:50   閲覧 (2877)
【要旨】福島第一原子力発電所の事故以降日本では、意図的に脱原子力を進めようとするプロ市民などの活動が活発化して、国全体においても原子力を全面否定するかのような空気に包まれています。彼らの主張は必ずしも合理的ではないのでしょうが、われわれ一般人はプロ市民の印象的な刷り込み活動やこれを煽るマスコミに影響を受けやすい傾向が有り、それが脱原発の空気の蔓延を許すことの一因になっているように思われます。そこで、なぜそのような傾向が生まれるのか考えてみました。
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【要旨】我国の将来のエネルギー政策を巡って、再生可能エネルギーと原子力発電の扱いについて、国論が割れている。
原子力発電を止めても再生可能エネルギーでエネルギー需給は賄え、エネルギー価格も高騰せず、我国の経済活動に支障を与えることは無いという原子力ゼロシナリオで代表される意見と、再生可能エネルギーは我国では資源量が少なく、原子力発電を止めてしまえば、エネルギー価格は高騰し、日本経済は大きな打撃を受けるという原子力必要論との攻めぎ合いが生じていて、「二項対立」といわれる状況である。
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【要旨】1.脱原発ができるのかを考えるとき、原発の危険性だけを考えないで、日本として何をしなければならないか、観察や実験はできないので、「根拠と論理展開」の視点にたって国民一人一人が考えなければなりません。そういう意識があれば、感情的な発言をするTVキャスターや評論家に惑わされずに、しっかりとした根拠を示しながら解説するマスコミ、知識人の意見を聞くことになるでしょう。
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46号  脱原発 おかしな議論


カテゴリ:  原子力安全    2012-8-22 18:50   閲覧 (3696)

【要旨】原子力発電を抜きにしてこれからの日本の将来を考えた時の経済、エネルギー保障などをどう考えるのかが重要であることは、原子力推進、反対を問わず共通の認識でなければならない。
その議論のされているなかで、本事故とは直接の関係のない内容の問題が議論の俎上にのっている。代表的なのは、
1 電気料金体制を見直し、全面自由化にすれば、脱原子力をしても、料金は下がる。
と述べている自由化をすれば本当に料金は下がるのだろうか。それに対する相応しい参考資料として、最近、公表された電中研の「電気料金の国際比較と変動要因の解明―主要国の電気料金を巡る事情を踏まえて」自由化による料金の動向が報告されている。要約すると、日本の電気料金一貫して下落傾向にあるのに反して、自由化した欧州各国の多くで恒常的に上昇していることが指摘されている。
詳しくはPDF 版をクリックしてください。