1.はじめに
池田信夫著の「原発『危険神話』の崩壊」(PHP新書)の帯に以下の文がある。「東京電力福島第一原子力発電所の事故は、原発について二つの神話を打ち砕いた。『安全神話』と 『危険神話』である。特に後者の放射能による健康被害は、従来の想定よりも小さかった。・・また放射能による発がんリスクを問題にするなら、タバコはもちろん、・・携帯電話も危険だという。・・・』ここでは“危険神話”の崩壊が強調されている。 一方、田原総一朗著の「日本人は原発とどうつきあうべきか」(PHP)の中に、元原子力設計者がこう述懐する一節がある。「・・完璧な『閉じ込め機能』などありえない。・・また閉じ込めるのが無理だとすれば、私は放射能が漏れ出てしまう可能性があること自体、容認できないのです。・・」この設計者は、“安全神話”の虚構を糾弾し原発を否定している。悲惨さを強調する気持ちはよく判るが、冷静にみると自分の感情を主観的に主張しているだけ。彼の発言には日本の将来という視点は微塵もない。2.原発の“三角論議”
“安全神話”と“危険神話”という対句は見事だ。「危険神話」という表現は今まで曖昧模糊であったものを明確にしてくれた。“安全”と“危険”は通常人の心の中でバランスよく併存しているが、ある“バイアス”がかかると「安全神話」か「危険神話」に分極する。何とも思ってない人を、何かの理由で好きになったり嫌いになったりする、のと似ている。バイアスの簡単な例は福島原発事故だったり、国の将来に対する原発の必要性だったりする。この両対極(安全神話と危険神話)を三角形の固定された2点とし、経済的繁栄、国力の増強、独立の維持などといったことを3点目の可動点とすれば、的を外さない原発論議をすることができる。これまでの原発論議もすっきりしたものになり、国民の理解につながり易い。このような検討の形式を“原発の三角論議”と呼ぶことにしたい。IOJではこれまで日本人が伝統的に持つ“状況的倫理観”を可動点にして議論してきた。この形式は天秤をすぐに想起させる。両側の天秤皿の上に“安全神話”と“危険神話”が乗っているとし、これらを“不動点”とする。一方、国益や経済性や国民の安心感などを“可動点”とし支点を動かす。支点とは人間もしくは国民が立つ位置である。主題が変わり支点の位置が“危険神話”側に近付けば、バランスを取るため“危険神話”が重くなるか“安全神話”が軽くならなければならない。あるいは支点が“安全神話”側に寄れば原発推進が重くなる。池田氏の支点は“安全神話”側に近く(必ずしも原発推進という訳ではない)、元設計者の支点は相当に“危険神話”側に近い、ということが自然に理解されよう。このようにメリハリの利いた議論が可能となる。そうすると、これまでの議論は、「日本人の精神的特性」が支点の位置にどう影響を及ぼすか、という問題に還元される。
3.可動点を動かす要因とは
三角論議を具体化する方法として“天秤とその支点”を考えることにすると、この仕組みに多くの意味を持たせることができる。 1)原発問題の支点の位置に立つのは国民。支点の位置が対極の価値(重み)を決める、 2)国民が立つ位置を決める要因は何かが大事。影響因子の特定の議論が明白になる、 3)天秤は常に釣り合うのが原則、皿の上のものが議論の内容を表す。それは、運転再開か非再開か、廃炉か新設か、燃料サイクルの可否、などである、 4)天秤皿の上には安全神話と危険神話のように二項対立するものはすべて載せられる、 5)天秤皿はいくらでも増やすことができ、複雑な問題も議論することができる、 6)ふたつの固定点と一つの可動点が形成する三角形の面積は結論の有益性(国益)を定量的に表わせる可能性を示唆す る。 以下に“相対化”を例にとり説明する。 そもそも人がどの支点に立つかは倫理観や感情に、あるいは有識者の場合だと世界観に、影響される。これまでIOJで数年間にわたってなされた議論のキーワードは「状況倫理、“空気支配”、“である道徳”、“よそ事主義”、“キョロキョロ主義”、“あれダメこれイケ精神”、“目的と手段の倒錯”、“基軸と絶対”、“絶対と相対”、“情緒的判断”、“踏み絵的判断”、“歴史の復讐”、など」である。紙数の関係でこれらの説明はできないが、これらの判断要因の中で、支点に一般性をもたらす重要な判断方法は何と言っても“相対化”であろう。元設計者の考えが“相対化”と無縁であるのは自明である。責任を有する者は情緒の先を探索しなければならない。問題は「日本人は一般に相対化より情緒化を好む」ことにある。その傾向は、“空気”に抵抗できず左右され易いこと、痛い目に会うまで行動しない“よそ事主義”、科学も“状況次第”という倫理観、などに現れる。相対化を行えば支点はどっちに向かってどれだけ動くか、説明し易い。IOJでは今後このような独自の手法に沿って問題の分析を進めていきたい。原発の再稼動には何が必要か
1.ストレステスト
原子力発電所の再稼動の判断材料となるストレステストをめぐって議論が起きています。我国の経済状況、電力需給等の面から、原子力発電所を再稼動させることは焦眉の急ですが、安全性を犠牲にしてはならないことは言うまでもありません。 国は昨年7月に出された「我が国原子力発電所の安全性の確認について」に基づき、一次評価(定期検査で停止中の原子力発電所について再稼動の可否を判断)、二次評価(全原子力発電所を対象に総合的な安全評価を実施し、運転継続の可否を判断)を実施することとしています。 一次評価での再稼働に向けた手続きは(1)電力会社が各原子力発電所の安全上重要な施設や機器が想定を超える地震や津波にどの程度耐えられるかを示すシミュレーションを実施(ストレステストの1次評価)(2)1次評価の結果を原子力安全・保安院が審査(3)原子力安全委員会が保安院の審査結果を確認(4)原子力発電所の立地自治体の同意を前提に、首相、官房長官、経済産業相、原発事故担当相が最終的に再稼働を判断するという流れです。 ストレステストだけでは、再稼動の判断材料として不十分だと言う論拠として、「国、東電などの事故調査委員会の報告が出ていないのに、それらの報告で新しく問題点等が出てきた時に評価が不十分であったことにならないか」と言う疑問の他、「どこまでの地震や津波に耐えられれば安全だと言えるのかの基準がないまま、再稼働の是非を判断するのはおかしい」、「国がまず福島原発事故の知見を反映した安全基準を示すべきだ」という地元首長の声は重いものがあります。又、原子力安全委員長の「安全委員会は再稼動の合否の判断はしない」等の発言もありました。
2.事故調査委員会の報告
国がストレステストの位置づけを明確にしないために起こされた混乱ですが、まず国などの事故調査委員会の報告は、事象の解明とその原因よりも、責任の所在、追及に重点があります。一方、再稼動に当たっては、国の指示によって事業者の行った緊急安全対策などの有効性の検証が重要で、責任等の追及はストレステストとは別の場で、時間をかけて徹底的に行うべき課題です。 3.暫定基準 基準に関しては、暫定的なものを定めておけばよいものを、国が動かないのは怠慢です。そもそも原子力発電所の運転に当たっては、常にその時点でベストな基準を追求するべきもので、再稼動後に、その後の知見を取り入れて不断に改定を続けていき、必要であれば現場でのバックフィットを実施することが基本ですので、この際、例えば、福島第一原子力発電所を襲った津波と同程度以上の津波に対して炉心損傷を起こさないことなどの暫定的な基準を策定し、その後、緊急安全対策、ストレステストでの裕度評価等の結果を考慮し、海外の基準等も参考にして少し時間をかけて本格的な安全基準を策定することが現実的です。安全委員長の発言は、当事者の一人であるのですから、原子力安全委員会が再稼動に正面から取り組むことの一層の奮起を期待します。4.再稼動するには
福島第一原子力発電所の事故の全容は、これまでの調査によりほぼ解明され、設計、設備の不備等が明らかにされましたので、今後、新しく大きな事故原因となるものは出てこないでしょう。 一方、不備等の面だけで無く、原子力発電所の耐震性に関して、直下型地震に近い柏崎刈羽原子力発電所の例を含め、安全設備等の重要機器は損傷することなく、設計どおりに機能したこと、並びに津波に襲われた原子炉建屋などの主要建屋そのものは、びくともしなかったこと、重要免震棟は電源を含めて機能を発揮したことなどは評価できることです。 現在行われている1次評価は、炉心損傷など深刻な事故を起こさない対策がどれだけできているかを調べるもので、電力8社が計16基分の1次評価書を提出済みです。最も手続きが進む大飯原発3、4号機について、福島第一原子力発電所を襲った地震、津波と同程度のものが発生した場合、設備補強などにより従来基準の1.8倍の地震の揺れや、4倍の高さの津波に耐えられると報告しており、保安院は2月中旬、「妥当」との公開の場で実施された審査の報告を出し、現在、安全委員会が確認作業に入っています。 ストレステスト報告書を読むと、実に精細に議論、解析、現地調査等が行われ、これまで想定していた地震、津波よりも大幅に大きいものが原子力発電所を襲っても、原子力発電所側で設備の整備、体制の強化等で対応し、福島第一原子力発電所事故のような炉心損傷、放射性物質の所外放出に至らないことが理解でき、飛躍的に原子力発電所の事故対応能力が強化され、多重性、多様性の強化などに基づく安全性の向上が理解できます。 福島第一原子力発電所の事故は非常に不幸な事故でしたが、津波による被災、特に死亡者が行方不明を含めて2万人近くに達しているのに比較して、福島第一原子力発電所事故による直接の死亡者はゼロでした。放射性物質による汚染によるがん発生が心配されていますが、これまでの発生例はないし、今後も統計的にも有意な増加データは出ないと専門家は指摘しています。むしろ、がん発生を危惧するよりも精神的なストレスによる健康面の影響の方が実際的に影響は多いと専門家は指摘しています。今、我国にとって緊急の政策課題は何か、の冷静かつ、総合的な判断が求められます。その際、再稼動の前になすべきことと再稼動後に若干の時間をかけてすべきことを峻別することは、正に政治に課せられた使命であるのです。 原子力安全委員会が保安院の審査結果を確認することによる原子力発電所の再稼動の安全性が検証されれば、政府は国の審査で原子力発電所は安全なことが検証されたことを一丸となって国民に説明して不安を払拭し、地元の納得を得る最大限の努力を払うことが喫緊の課題です。その上で、政府4閣僚の責任で、再稼動を判断することではないでしょうか。
脱原発はとてもできない
民主党政権は、津波対策を実施し定期検査で健全性が確認された原子力発電所を、突然持ち出したストレステストの名のもとに長期間にわたる審査等の手続きを課すことで、原子力発電所をなかなか再稼働させないという動きを示しています。今年2012年は、将来万一わが国が脱原発を目指した場合、日本の経済や社会にどのような影響を与えるか、その一部を目の当たりにする年になりそうです。1.電力不足の影響
夏までに原発が再稼働しないと全国的な電力不足となり、計画停電等が必要になる可能性が大きいと考えられます。万一、企業や一般家庭の全面的な協力により、ピークをぎりぎりで乗り切ろうとした場合でも、昨年来酷使し続けてきた古い火力発電所が故障し大停電に発展するリスクを常に考えておかねばなりません。2.経済的社会的影響/2012年に抱えるリスク
2011年は、止められた原子力発電所の代替として、古い火力発電所をも総動員して稼働したため、すでに高騰し始めている化石燃料(原油、石炭、天然ガス等)に頼らざるを得ませんでした。このためほとんどの電力会社は、大幅な赤字になり、東京電力を除いても、総額5000億円以上の赤字決算になると報道されています。 昨年実施された、エネルギー経済研究所の分析によれば、もし2012年に健全な原子力発電所を再起動しなければ、化石燃料の増加分が約3.5兆円となりこれを電気料金に転嫁すると、産業用電力料金は、36%上昇するとしています。慢性的な節電要請に加え、電気料金の高騰などで企業の海外転出は加速し国内産業の、空洞化やこれに伴う失業率の上昇は避けられないでしょう。 このような社会に与える影響も深刻ですが、日本という世界で突出した財政赤字大国が健全な原子力発電所を停止し火力発電所の燃料費で、毎日100億円も余分に使う余裕などないことを野田総理が、誰よりもよく知っているはずです。早く健全な原子力発電所を再起動させ、国民の負担を少しでも軽減することが、民主党政権の、罪滅ぼしだと考えるべきです。原発の再稼働が遅れる場合、中国、インドと並んで日本も化石燃料消費を大幅に増加することから、中東でちょっとした紛争が起きれば、かつて経験したオイルショックが発生し日本経済は大混乱になるでしょう。3.自然エネルギーで原発の代替は可能か
評論家や新聞の論調に乗せられて、自然エネルギーで脱原発をと唱える政治家がいることも驚きです。 2010年に策定したエネルギー基本計画では、2030年の時点で水力を除くとと太陽光や風力で約10%の発電量を賄うこととしています。これは原発10基分に相当しますが、これを達成するために太陽光だけで賄う場合は1億kwの設備、風力だけで賄う場合は5000万kwの設備の設置が必要です。すべての原発を代替するとすると原発80基分をを賄う必要があります。経産省の調べでは風力発電の適地は北海道、東北北部には適地がありますが、補助金を考慮しても経済的に成立しそうな個所は原発10基分程度とされています。とても原発を代替することはできません。風力発電に適したドイツでも地上での設置が受け入れられる量は原発10基分程度が限界とされています。北海道や東北に偏在する風力発電による電力は遠く本州の大消費地に送る必要があり既存の送電網では不可能で、新たな送電線の設置が必要です。風力や太陽光のような不安定電源5000万kw以上を系統電源に乗せるための技術開発も必要です。5000万kwは日本全体のピーク電力の約30%でありこれを送電系統に入れることは、技術的には極めて困難とされています。 まして原発の代替とすることを目標としたら、資金をいくらつぎ込んでも、技術的に達成できるレベルではありません。もしこんなことを目標にすれば、この目標自体が国を衰退させ,脱原発の最も深刻な影響となります。政治家は机上の空論や夢のまた夢で政策を語るのではなく、現実を把握したうえで確信の持てる政策を語って欲しいものです。