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SEJ 日本のエネルギーを考える会

22号 歴史から見た「万が一問題」と原子力


カテゴリ:  福島事故    2012-1-13 7:20   閲覧 (2848)
会員の皆様、昨年は原子力界にとって想像を絶する大変な年でした。民主党政権になって2年半。随所で国力の低下が感じられた一年でした。本年は、皆様方と協働して新しい展望が開けるよう一層精進していきたいと思います。皆様のご多幸とIOJの発展を心より祈念いたします。

1.原子力と自然エネルギー

現在、日本は色々な意味で岐路に立たされている。福島原発事故によって先鋭化した原発問題はその一つ。事故発生後10カ月を経て冷温停止状態に達したものの、現場における汚染水処理や環境放射能の除染といった課題は未処理のため不安は十分に解消されていない。このため反原発の“空気”がマスコミに醸成され国民の間で猛威を振っている。事故の悲惨さを考えれば仕方がないと思う反面、それが重大な国家の運命に関わっていると思うと複雑な思いである。しかし、福島原発事故に負けて誤った結論を出してはいけないのも事実。反原発の結論を急ぎたい勢力が活発な活動を展開している現在、時間が問題解決するのを、腕を拱(こまね)いて見ている状況ではない。国民一人一人が事実を知ってしっかり発言して行くこと、それが結局、福島だけでなく日本の将来のためでもある。
原発廃止は自然エネルギーの代替能力が前提。だが、我が国の自然環境と技術的制約を考えれば自然エネルギーに大きな限界があるのは明白。IOJ便りで、自然エネルギーについて「量的に限界があり、天候に左右される」など、少なくとも我が国では、安定しない低品質の電力源にしかなり得ないことを詳しく紹介し大きな反響を得てきた。国民は一部の反原発新聞やテレビの報道をうのみにしないで、事実を正視して欲しい。それはこの国が将来を誤らないために不可欠なことである。

2.自然エネルギーの破綻

端的な例をあげよう。中国は現在35,000基の風力タービンを有するが、その30〜40%は故障などの理由で停止したまま。ドイツは10年間かけて太陽光発電の導入を試みたが、現在の発電量はわずか1.9%。少なくとも我が国では、風量も少なく、2か月間に渡る梅雨がある。相当の犠牲を払わなければ自然エネルギーは無理である。相当の犠牲の一つは非現実的で巨大なバッテリーの設置であるが、これは机上の空論であり、破綻するのは目に見えている。電力や送電網の専門家に聞くと良い、今彼らは反原発“空気”に批判されるのを恐れ黙しているが、本当は「自然エネルギーを送電網に組み入れることなど土台無理である」と思っている。  

3.過去と未来を考えない机上の“幻想”

国が重大な選択をする時、明治以降145年間、我々はどういう歴史をたどってきたか、学ぶべきである。その時、知らなくてはならないことは、一部新聞の太平洋戦争に対する戦争責任論である。どのように戦争を煽り、どのように国民が戦争のために勇気を持って死ぬことを推奨し美化してきたか、尋常ではなかった[朝日新聞の戦争責任、太田出版]、[太平洋戦争と新聞、講談社]、[失敗の本質、中央公論新社]。300万人が死んだのである。彼らは戦争責任を果たしていないし、そういう新聞が反原発を煽り「日本の将来」を誤った時責任をとるとは信じられない。重要なことは、こういう戦前の事実を大多数の国民が知らないことであろう。 戦争はどうして起こるのか、国が弱体化したとき独立をどう保つのか、核を保有する周辺国(中国、北朝鮮、ロシア)の脅威にどう対処するのか、尖閣諸島や竹島問題、あるいは北方領土にロシアが核ミサイルを設置し領土要求をしてきたら、どうするのか。昨日(1月3日)のニュースで、ある共和党の大統領候補は、「米軍は日本と韓国から撤退すべきだ」と伝えていた。アジアで戦争が起きた時、米国が犠牲を払ってまで日本を守るか、鳩山氏の愚にもつかない友愛精神と同じ程度に疑わしいと思わねばならない。それが歴史というものではないか。原発問題もこういう将来の「万が一問題」をよく考えた上で判断すべきである。福島原発事故が十分に終息していない段階ではこういう言明は慎むべきとは思うが、今真実を主張しておくことが、福島、東北地方のわが同胞だけでなく国民の将来のためではないだろうか。

4.無責任体系について考えてみよう

唐突であるが、何故、勝てないことが自明だった太平洋戦争に突入していったのか、多くのことが指摘されているが、ここでは根幹的な理由として、当時の軍部、国の指導層、言論界における「無責任の体系」にあることに着目したい。「無責任の体系」という表現は、丸山真男が、極東裁判の膨大な記録を分析したとき使った表現である[現代政治における思想と行動;未来社]。被告人たちはことごとく「私には責任はなく、上司の命令、法的措置、慣習、などと云って責任逃れに努めた。そこには潔さはどこにも見られなかった」という。 問題はそれが現在でも当てはまるところにある。今誤った選択をして将来国民が福島どころでないもっと悲惨な目にあった時、誰が責任をとるのか、という問いかけ。戦前に見られた無責任体系は今でも健在であり、先に述べた新聞が未だに戦争責任をとっていないように原発廃止の責任は取られないであろう。原子力を混乱の淵に落とし込んだ最高責任者“菅直人”氏と当時官房長官だった“枝野幸男”氏は検証の結果に対してどういう責任を取るのか。私たちは「責任をとること」を決していい加減にしてはならないと思う。  ところで、“無責任体系”を成立させる土壌はなにか。それこそ我が国の伝統的な倫理観の根幹をなす“空気”である。見かたを変えれば“空気”が決定権のある人たちに太平洋戦争の開戦を決断させた。原発問題もこういう構図になっていないかと疑ってみることが重要である。また「低放射線汚染問題」の報道の多くはひどすぎる。これらの報道の根底に存在するものは、“無責任体系”である。「責任を負わなくて済むなら何でも有りか」、と問いたい。  

5.「歴史の復讐」を気にしなくて良いのか

 あることを否定して勝者になったものは否定されたものから時間を介して復讐される。明治は、明治維新につながった江戸の尊王論に関する部分を維新直後に否定した。江戸時代、天皇は現人神ではなかった。また富国強兵を目標に古い習慣は捨て去られ急速な近代化を図ってきた。否定されたものは消えたように見えたが潜行しただけ。 矛盾の始まりは皮肉にも日露戦争の勝利と軍人のおごり。天皇が現人神となり、軍部がそれを利用し、軍国主義に繋がった。「江戸の復讐」は『その時の国際環境(支那での権益)と“空気”を通して国民を太平洋戦争へ突入させることで日本を破滅させた』という形を取った。 “戦前”を否定した“戦後”が“戦前”から復讐される兆候は65年を経た現在随所で見られる。民主主義、個人主義、憲法、教育などは我々が血を流して獲得した制度ではない。これらは、敗戦という“異常事態”のもとで押し付けられ“まやかし”的に導入された。その結果、それらは「共同体の幻想」として機能してきたが、伝統的な現実に根を張っていないため、時間と共に綻び、社会の矛盾となり、大きな困難になりつつある。荒廃した教育と無気力な若者、行き過ぎた個人主義、モラルの劣化、日教組や労組の法を無視した政治活動、等々“幻想”の破綻は至るところに見られる。こういった諸々の要素は顕在化して復讐する時期を伺っていると見るのが危機管理である。一部マスコミの反原発やその安請け合いに応じている学識経験者たち、日本の技術に対する確信はどこに行ったのかと、思わざるを得ない。

6.おわりに

反原発が「歴史の復讐」を受ければ、影響は大きく国の衰退を一挙に加速させる。では、「戦前の復讐」は『“空気”を通して原発を廃止させ国家を衰退させる』という形を取るのか。問題は「この衰退の先に平和ボケした我々を何が待ちうけているのか」であろう。この疑問の答えは、この国の「万が一問題」と原発の関係を分析しなくては得られない。今、我々はこれを正視すべき時期に来ている。核的能力をすべて放棄し、国が衰退し、領土問題で他国に無理難題を押し付けられたとき、それに抗する能力と手段はどこにあるのか。このとき“友愛精神”で問題が解決できると思うなら、それ自体が「戦後が戦前に復讐される」前兆であろう。史上最高レベルの日本の“原子力総合技術”を事故の悲惨さだけで放棄するなど、太平洋戦争で国を誤ったあの“狂気”と同じに見えて仕方がない。 今こそ歴史の事実を見直して、この国の将来を冷静に考えるべき時ではないだろうか。
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