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SEJ 日本のエネルギーを考える会

11号 みんなの考え、変じゃない?(1) ―「キョロキョロ主義」と「大勢主義」―


カテゴリ:  原子力政策    2011-8-16 6:40   閲覧 (2557)

1)大勢主義とは:
イ)日本人の行動パターン:



竹内 靖雄氏の「日本人の行動文法」(東洋経済社)は日本人の行動原理と倫理観を改めて認識する上で大変参考となる。無味乾燥な哲学的論証などと無縁で、日常生活における行動原理と直結していて有益である。例えば『日本人は最初から明確な自分の意見を持っている訳ではない。多数の意見が明らかになり「大勢」が見えてくれば、その多数の意見を自分の意見として採用し、「大勢に従う」のである。』という。毎日、朝日に代表されるマスメディアが脱原発のキャンペーンを張っている。これは大衆のこういった習性に訴え功を奏しているように見える。これらの扇動は、両紙が戦前、軍部に協力して日中戦争を美化した記事で発行部数を大きく伸ばし、その結果、想像を絶する国民の悲惨さに繋がっていった事実を思い出させてくれる。ある種不気味なものを感じるが、惑わされることがないよう気を付けたい [朝日新聞の戦争責任:大田出版]。

ロ)大勢主義と国の将来:


このように日本人が大勢に順応し易い習性の根底には、自分だけが「大勢」の外に置かれ孤立することを極端に嫌う、という恐怖感がある。日本人のこのような態度は状況に順応して現実にめったに竿を差さない日常茶飯事と化している。当座を凌(しの)ぐことが関心事で、状況の改善のため議論を深めることを望まない。たどり着く先が人々を幸福にするのかしないのか、一番大事なことでさえ二の次にしがちである。このような日本人の姿勢をここでは「大勢主義」と呼びたい。
「大勢主義」は「状況倫理」の一形態である。日本人にとって、「状況倫理」からの脱却とその改善は国の将来のため望まれる。以下の脱原発問題は我々がこの「大勢主義」にどう係るかの試金石でもある。福島原発事故や放射能汚染について「大勢主義」に流されないで正しく恐れることがどれだけ重要か、情緒的に判断することがあってはなるまい。
あと10年もすれば中国には100基以上の原発が稼働する。こういう状況を踏まえれば、近隣諸国において我が国だけが原発を全廃する事態は国際的な政治環境から見ても不自然である。国内だけに閉じた決定で良いのか、さらに国の将来はそれで良いのかと思わずにはいられない。現在、世界で安全に運転されている原発は430基。わが国の原発だけが今にも福島のような事故を起こすような言い方は原子力技術を正しく理解していない情緒的な判断のように思える。
日本は核兵器を保有する周辺国に囲まれ脅威を受けている。原水禁運動の建前からこの脅威が減ることを期待し続けてきたが、その成果は未だにはっきりしない。原子力発電能力を喪失する事態はこの国の力を一層弱めることにならないか心配だ。脱原発が国家の独立という側面と原発全廃を決めたドイツやイタリアの政治的状況に触れないのはいかにも短絡的に見える。菅氏の「原発に依存しない社会の実現」は個人的な思いつきとはいえ国の将来に関する軽率な表現である。国の安全と繁栄をどう確保するのか総合的な将来像を見せてもらいたい。
以下に、「大勢主義」に従って失敗した例と成功した例について考えてみたい。


(2)失敗例と成功例:
イ)国家の破滅と「大勢主義」:


 


太平洋戦争は「大勢主義」に誘導され国を破滅させた典型的な例である。戦前、軍部が台頭し未熟な政党政治が敗退を余儀なくさせられ、外交もうまく行かず、戦争への道を歩まざるを得ない社会情勢下にあった時、朝日と毎日は国民を戦争へと煽っていったという。NHKの報道である。当時の人々がこのような状況下で、どれだけ戦争や日本の行く末について自分自身の考えを持っていたかである。漠然としたイメージは持っていてもそれをはっきりした意見に具象化することは「大勢主義」に支配された社会にあっては困難であったろう。軍部に息の根を止められたマスメディアは言論の自由を放棄し結果的に国民をミスリードした。その背景にこの「大勢主義」を見るのである。[前坂俊之、太平洋戦争と新聞、講談社学術文庫]
 戦後は軍国主義だけでなくよき伝統まで抹殺したが、この「大勢主義」が改善されたという社会現象は見られない。鬼畜英米という戦前の標語、福島原発を見て全原発の廃炉化という現在の謳い文句、これらの標語間には共通する精神的特性がある。自然エネルギーの導入に対する過大な期待は脱原発に見られる「大勢主義」の影響なしとしない。太平洋戦争の悲劇がエネルギー不足にあった事実は忘れてはなるまい。

ロ)戦後の経済復興と東北の震災復興:


成功例は外国を模倣してお手本にすぐ追いついてしまう事実に見られる。明治以降の科学技術の成功もそうである。戦後の急速な経済的復興と繁栄は卑近な良い例である。ここには日本人の才能と勤勉が力を発揮し工夫を重ねながら成功を勝ち取った成果がある。「大勢主義」が良い意味で機能すればうまく行く。日本は「戦後の荒廃から立ち上がる」といった単純な目標の達成にかけては世界に引けを取らない。神戸震災のように災害からの復興の早さは世界一であった。


(3)日本人の「キョロキョロ」主義:
イ)辺境人は「キョロキョロ」する:


辺境人とは内田 樹の[日本辺境論:新潮社]に出てくる用語である。そこには日本が置かれている地理的辺境性と日本文化の辺境性が分析されていて、我々の考え方にどのような偏りがあるのか、どのように世界の大勢に遅れているのかを自覚する上で興味深い。先の「大勢主義」もこの辺境性と無関係ではない。


要するに「大勢主義」から脱却できないといつも周りが気になり「キョロキョロ」する。こういう生き方をこれから「キョロキョロ」主義と呼ぶことにしたい。これには個人的なものと国家的なものがある。個人的な「キョロキョロ」主義については今のべたとおり。国家的な「キョロキョロ」主義は、国の行く先を決める上で独自の戦略を策定しないで、先進国を模倣する態度に表れる。明治以前は中国が、戦後は欧米がお手本。この国はいつもどこかにお手本となる国はないかと「キョロキョロ」している。
自然エネルギー推進者はその導入の成功例にドイツを挙げるが、それも都合の良いところだけを取り上げ、環境に関する彼我の違いは伏せ、太陽光発電を推進して10年以上たつのに発電実績はわずか1.9%に過ぎないことなどには目をつぶる。これは「キョロキョロ」主義に基づいた着想だけでは危ういという例。

ロ)日本の伝統文化と西洋文化の折り合い:


「キョロキョロ」主義が支配的な場合、外来文化の輸入は都合が良いことだけを取り上げる結果に終わる。科学技術の実学的側面は輸入するが、その根幹に横たわる哲学的思考は受け入れない。その結果、科学の普遍性は受け入れず都合が良い時だけ利用する。ラジウム温泉のように、放射能は健康にいい場合、あるいは許容できる場合もあるのに、原発の放射能は一方的に拒否しゼロを要求する。



理由は、日本人は伝統的習慣や思想を体系的に整理し現在に止揚してこなかった点にある。新しい文化との折り合いのつけ方が分からず、その結果日本的伝統は西洋文化(科学など)と正面から向き合えず背後から潜り込むという形になる。そうなれば西洋文化の位置づけが定まらず「思い出」としてしか残らない。「思い出」は普段は眠っており状況に応じて都合よく顔を出すだけのこと。日本の伝統文化と西洋文化のこのギャップは何時までも埋めることができないでいる。実は原子力の導入もこれと無関係ではない。

ハ)成功する場合としない場合:


原子力技術もこの欠陥を持ったまま導入された。技術は必死に学ぶが肝心の安全思想の受け入れは形式的。原子炉の過酷事故は考えても安全の根幹は軽視し対策としての危機管理を本気で考えようとしない。長期間にわたる全交流電源の喪失は考えなくてよい、といった致命的な油断を招くことになる。従って、「キョロキョロ」主義で済む問題とそうでない問題があることを認識しておく必要がある。「キョロキョロ」主義の克服にはソクラテスの「無知の知」に学び、それを安全確保に活かす必要がある。「無知の無知」では原子力は制御できない。
復興問題のように問題の構造が単純な場合あるいは他人の意見を「キョロキョロ」気にする必要がない場合には間違いなく成功するが、未来に関する不透明な問題のように責任を伴う問題に対しては、自分で決められずにいつも「キョロキョロ」しながら周りを伺い、責任を取りたくないから逃げの一手を打つ結果になり、結果的には失敗しいつも痛い目に会う。日本人のポリシーは「対策は最大の防御」ではなく「先送りが最大の防御」なのである。これで良いはずはない。

(4)脱原発への「空気」:



 


 今日本では反原発の「空気」が猛威を振っている。原発推進の発言をすると反原発のメディアから猛烈な攻撃をうける。冷静な議論どころか感情論で評価される。太平洋戦争前に形成されたあの「空気」を思い出す。賛成か反対か、踏み絵の横行である。脱原発の「空気」を後押ししているのは未だに終息していない福島原発事故と拡散してしまった放射能である。これが人々を嫌原発から脱原発に押しやった。当然このような状況の変化は「大勢主義」に影響される情緒的な側面に原因がある。理性によって緩和されることが望まれる。
 エネルギーのベストミックスという観点から、現在の反原発の「空気」を気にしないで、次の事実を指摘したいが読者はどう思われるか。
1)まず、チェルノブイリ事故であるが、それが起きたウクライナではどういう国家処置がなされてきたか。事故後25年経った現在、ウクライナでは14基の原発が運転中、4基を建設中。脱原発には走っていない。その理由は報道されないし、国民はその理由を知らない。テレビは地獄のような場面を報道するだけ。こういう客観的な見方をしたがらないのは我々が「空気」の呪縛にあっているからであろう。
2)福島原発事故の死者はゼロである。また被曝した住民で健康被害が発生した例もない。ただし、環境被曝がどれだけ深刻か判らないが、マスコミの連日の報道は危険性を煽っているようにしか思えない。50年前大気圏核実験が実施されていた頃、セシウムによる環境放射能は現在のレベルより約一万倍高かった。それでも被曝による健康被害は報告されていない。マスコミの今の報道は国民への情報提供といいつつ実は住民に過剰な動揺を与えている。ある新聞は冷静にセシウムの内部被ばくで健康障害はみられないこと、100ミリシーベルト以下の外部被曝で健康被害が発生した例もみられない、ことなどを紹介していた。この混乱の責任は菅内閣とメディアにあると思うがどうか。
3)脱原発を確信させている理由に、自然エネルギーが原子力の代替になるという誤解がある。エネルギーのベストミックスならまだしも、自然エネルギーへの過大な期待はいわゆる「アポリアの悲劇(解決の糸口がないこと)」に終わる。これはIOJだより第9号で報告された。ドイツ、米国、など、自然エネルギーの導入に成功していると思われている外国の例をそのまま鵜呑みにして日本にも適用できると思うことの軽率さ。こういう態度は「キョロキョロ」主義であり、人の意見を無批判的に受け入れる「大勢主義」と同根である。(KM記)


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