124号 黙ってはいられない 無駄な裁判を繰り返さないために−大津地裁と福岡高裁宮崎支部の判決を見比べる−
運転差し止めを求めた原告29人は高浜原子力発電所の近傍に住む住人ではなく、発電所からはるか離れた滋賀県の住民である。発電所から県境までの距離を測ってみると最短直線距離で約30kmも離れているのである。原告が住んでいるところはこれもよりも確実に遠いわけで、緊急時の避難対象地域にも当たらない。
運転差し止めを求めた原告29人は高浜原子力発電所の近傍に住む住人ではなく、発電所からはるか離れた滋賀県の住民である。発電所から県境までの距離を測ってみると最短直線距離で約30kmも離れているのである。原告が住んでいるところはこれもよりも確実に遠いわけで、緊急時の避難対象地域にも当たらない。
大津地裁の高浜原子力発電所3・4号機運転差し止めの仮処分判決と福岡高裁宮崎支部の川内原子力発電所1・2号機運転差し止め請求判決を見比べると大きな差異があるのは歴然としている。
3月9日に出された大津地裁の判決は多くの点で異常な判断であった。
1.原告は適格か
運転差し止めを求めた原告29人は高浜原子力発電所の近傍に住む住人ではなく、発電所からはるか離れた滋賀県の住民である。発電所から県境までの距離を測ってみると最短直線距離で約30kmも離れているのである。原告が住んでいるところはこれもよりも確実に遠いわけで、緊急時の避難対象地域にも当たらない。こんな無関係な人々の訴えを受理したことからして異常であるが、原告適格が考慮されていないことが大変異常なことである。
2.原告は敗訴した場合に損害賠償に応じられるのか
すでに稼働している原子力発電所を止めるということは、関西電力によれば月約100億円の損失があるといっており、最高裁判決が出るまで5年を掛けて争った場合には、6000億円の追加コストが発生する。これを電力料金に反映すれば、社会的に膨大な損失を与えることになるのである。29人がどのような資産を持っているのか全く分からないが、この様な訴えを起こし、原子力発電所を止めた挙句敗訴した時には、電力会社が代替燃料のために支出した燃料代の他、裁判費用など当然原告が負担すべきであり、それだけの覚悟を持って提訴しているのかとの疑問はぬぐえない。敗訴した場合には、破算を宣言して債務から逃げることを考えているとしたら、それこそ無責任の極みと言えよう。
3.裁判官に安全性を判断する能力があるのか
原告の適格性が疑われる以上に判断能力が疑われるのが、大津地裁の山本善彦裁判長である。原子力規制の専門家が審査した結果、現行の安全基準に合致するとの判断が下され、稼働し始めた原子力発電所の安全性について、関西電力の説明が十分ではないとの理由で運転を差し止めたのである。原子力について全くの素人であり、技術的な判断能力の無い裁判官が、安全性についての説明を聞いて分からないと言ったという構図である。何が分からないのかも説明できない程度に知識が欠落しているにも拘らず、判決を下してしまう裁判長であると言えよう。こんな人間が地裁の裁判長を務めることが出来るのであれば、日本の司法制度は根底から異常であると言わざるを得ない。裁判所は、法律に照らして正しい手続きが取られているか、内容に不備は無いかなどの判断をする権限が与えられているのであり、専門家が下した判断を「理解できないから運転してはならない」と言う権限など誰も与えていない。これは恣意的な越権行為と言えるのではないか。
4.大衆迎合で司法の尊厳は守れるのか
この裁判長が下した判決は、大衆迎合以外の何物でもない。大体、最近は司法に関わる人材の質が低下しているとの批判をあちらこちらで聞くが、今回の判決を下した裁判長は、法の本質、法の精神すら理解していないのではないか疑いたくなる。福島原子力発電所の事故後、国民の多くが原子力発電所は無くても構わないと考えている様であるが、そのような時の風潮と裁判における司法判断とは全く別の次元で考えられるべき事柄である。法に基づいて的確な判断を下してこそ、司法の尊厳が守られるのであるが、今回の判決の様にどの法律に基づく判断か見当もつかない様な判決がまかり通る様では、国民が法に守られているという安心感を持つことは不可能である。司法の尊厳はどこに消えてしまったのであろうかと、悲憤慷慨するしかない。。
5.4月6日の福岡高裁宮崎支部の判決を見てみよう
1)絶対安全は実現可能か
科学的な判断力のある人々にとっては絶対安全がこの世の中に存在していないことは明白であるが、原子力反対派は常にそれが実現できなければ運転してはならないとの素人受けする論理で反対活動を続けて来た。福岡高裁は、原子力規制委員会が制定した新規制基準は安全上高度の合理性があるとして原告の主張を退けた。当然の解釈であると言えよう。
2) 火山噴火の予知が可能か
原子力反対派が針小棒大に危険視する火山噴火による影響については、噴火の時期や規模を的確に予測するのは現状では困難であり、一方、彼等が主張する破局的な噴火の可能性は根拠が明確でなく、極めて低頻度と解釈されるとしてこれも退け、立地が不適切であるとは言えないとした。これまでに起こっている噴火が判断の基準となるが、川内原子力発電所の近傍に噴火を起こしそうな火山が実在するならばともかく、遥か彼方の火山が耳目を集めているからといって、かかる主張をする反対派の方がおかしいとの判断は自明であろう。
3)避難計画の実効性が担保されているか
避難計画については、福島事故の教訓を活かして改善されてゆくべきものであるが、福島原子力発電所の事故後でも、実際問題として避難することが適切であったかが疑われ始めているのであり、安全性の高まった基準に準拠した発電所の運転によって、「住民の人格権が違法に侵害されるとは認められない」との判断は妥当である。
6. 結び
今回の二つの裁判を見比べると筆者の目には、裁判所から駆けて出て来て、あらかじめ用意した「XXX勝訴」と書いた紙を広げて報道陣に見せる担当弁護士、それをあたかも重大ニュースの様に伝えるマスコミ、平然としている裁判官、この様な茶番を演じている出演者すべてが異様に見えてしまう。
一方、福岡高裁宮崎支部の判決では、極めて常識的な判断が為されたものと考えるが、司法関係者に本来備わっているはずの無い科学技術上の知識、理解力が要求される訴訟に於いて、無理やり判断をしなくてはならなかった裁判長に同情を禁じ得ないのである。正当な判断を下しても、朝日新聞の様な反原発新聞は「住民の不安をどれだけ考慮したか」、「周辺には桜島などの火山がある」と、でたらめな社説を展開する。マスコミは住民とひとくくりで表現するが、ごく一部の反対派住民にすぎないのではないか。一体何人の人間が本当に不安と言っているのか、桜島がどのくらい離れているのか分かっているのだろうか。
この様な不合理な裁判が繰り返し行われることの無駄は計り知れない。
司法関係者の負担を軽減することを第一の目的とし、国民全体に多大な損失を与えることがないような方法を導入することを第二の目的として、米国の原子力規制委員会(NRC)の制度に倣うことを考えてはどうだろうか。
以前にもこのIOJだよりで取り上げたのであるが、原子力規制という極めて高度の科学技術の知見が要求される制度がきちんと機能するためには、専門家による正しい判断が可能な組織を規制委員会の周辺に設置することが必要であると考えられるのである。
NRCにはASLBP (原子炉安全許認可会議パネル)と呼ばれる組織が備わっており、NRCの行政措置に不満のある関係者(これには当然原子力発電所近傍に住む住民も含まれる)がその措置に対して不服申し立てをすれば、ここが第三者的にその不服を審査する制度となっている。
ASLBPは、3名の常任審査官(裁判所判事に相当)および32名の非常勤審査官(判事相当であるが、技術、法律の専門家でPhDレベルの人材が選任されている)で構成されており、合理的な判断を可能とする組織である。日本にはまだ無い。
NRCの行政措置に関して問題ありと考える関係者は、裁判所ではなくASLBPに提訴すれば、技術的な側面、法律的側面などを含め合理的な判断がされるようになっているのである。技術的には全くの素人である裁判官が非常識な判決を出すことのできる日本の制度は早急に改めて、海外の良い事例を導入することを真剣に検討すべき時が来ているのでは
ないだろうか。(伊藤 英二 記)
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IOJだより pdf
3月9日に出された大津地裁の判決は多くの点で異常な判断であった。
1.原告は適格か
運転差し止めを求めた原告29人は高浜原子力発電所の近傍に住む住人ではなく、発電所からはるか離れた滋賀県の住民である。発電所から県境までの距離を測ってみると最短直線距離で約30kmも離れているのである。原告が住んでいるところはこれもよりも確実に遠いわけで、緊急時の避難対象地域にも当たらない。こんな無関係な人々の訴えを受理したことからして異常であるが、原告適格が考慮されていないことが大変異常なことである。
2.原告は敗訴した場合に損害賠償に応じられるのか
すでに稼働している原子力発電所を止めるということは、関西電力によれば月約100億円の損失があるといっており、最高裁判決が出るまで5年を掛けて争った場合には、6000億円の追加コストが発生する。これを電力料金に反映すれば、社会的に膨大な損失を与えることになるのである。29人がどのような資産を持っているのか全く分からないが、この様な訴えを起こし、原子力発電所を止めた挙句敗訴した時には、電力会社が代替燃料のために支出した燃料代の他、裁判費用など当然原告が負担すべきであり、それだけの覚悟を持って提訴しているのかとの疑問はぬぐえない。敗訴した場合には、破算を宣言して債務から逃げることを考えているとしたら、それこそ無責任の極みと言えよう。
3.裁判官に安全性を判断する能力があるのか
原告の適格性が疑われる以上に判断能力が疑われるのが、大津地裁の山本善彦裁判長である。原子力規制の専門家が審査した結果、現行の安全基準に合致するとの判断が下され、稼働し始めた原子力発電所の安全性について、関西電力の説明が十分ではないとの理由で運転を差し止めたのである。原子力について全くの素人であり、技術的な判断能力の無い裁判官が、安全性についての説明を聞いて分からないと言ったという構図である。何が分からないのかも説明できない程度に知識が欠落しているにも拘らず、判決を下してしまう裁判長であると言えよう。こんな人間が地裁の裁判長を務めることが出来るのであれば、日本の司法制度は根底から異常であると言わざるを得ない。裁判所は、法律に照らして正しい手続きが取られているか、内容に不備は無いかなどの判断をする権限が与えられているのであり、専門家が下した判断を「理解できないから運転してはならない」と言う権限など誰も与えていない。これは恣意的な越権行為と言えるのではないか。
4.大衆迎合で司法の尊厳は守れるのか
この裁判長が下した判決は、大衆迎合以外の何物でもない。大体、最近は司法に関わる人材の質が低下しているとの批判をあちらこちらで聞くが、今回の判決を下した裁判長は、法の本質、法の精神すら理解していないのではないか疑いたくなる。福島原子力発電所の事故後、国民の多くが原子力発電所は無くても構わないと考えている様であるが、そのような時の風潮と裁判における司法判断とは全く別の次元で考えられるべき事柄である。法に基づいて的確な判断を下してこそ、司法の尊厳が守られるのであるが、今回の判決の様にどの法律に基づく判断か見当もつかない様な判決がまかり通る様では、国民が法に守られているという安心感を持つことは不可能である。司法の尊厳はどこに消えてしまったのであろうかと、悲憤慷慨するしかない。。
5.4月6日の福岡高裁宮崎支部の判決を見てみよう
1)絶対安全は実現可能か
科学的な判断力のある人々にとっては絶対安全がこの世の中に存在していないことは明白であるが、原子力反対派は常にそれが実現できなければ運転してはならないとの素人受けする論理で反対活動を続けて来た。福岡高裁は、原子力規制委員会が制定した新規制基準は安全上高度の合理性があるとして原告の主張を退けた。当然の解釈であると言えよう。
2) 火山噴火の予知が可能か
原子力反対派が針小棒大に危険視する火山噴火による影響については、噴火の時期や規模を的確に予測するのは現状では困難であり、一方、彼等が主張する破局的な噴火の可能性は根拠が明確でなく、極めて低頻度と解釈されるとしてこれも退け、立地が不適切であるとは言えないとした。これまでに起こっている噴火が判断の基準となるが、川内原子力発電所の近傍に噴火を起こしそうな火山が実在するならばともかく、遥か彼方の火山が耳目を集めているからといって、かかる主張をする反対派の方がおかしいとの判断は自明であろう。
3)避難計画の実効性が担保されているか
避難計画については、福島事故の教訓を活かして改善されてゆくべきものであるが、福島原子力発電所の事故後でも、実際問題として避難することが適切であったかが疑われ始めているのであり、安全性の高まった基準に準拠した発電所の運転によって、「住民の人格権が違法に侵害されるとは認められない」との判断は妥当である。
6. 結び
今回の二つの裁判を見比べると筆者の目には、裁判所から駆けて出て来て、あらかじめ用意した「XXX勝訴」と書いた紙を広げて報道陣に見せる担当弁護士、それをあたかも重大ニュースの様に伝えるマスコミ、平然としている裁判官、この様な茶番を演じている出演者すべてが異様に見えてしまう。
一方、福岡高裁宮崎支部の判決では、極めて常識的な判断が為されたものと考えるが、司法関係者に本来備わっているはずの無い科学技術上の知識、理解力が要求される訴訟に於いて、無理やり判断をしなくてはならなかった裁判長に同情を禁じ得ないのである。正当な判断を下しても、朝日新聞の様な反原発新聞は「住民の不安をどれだけ考慮したか」、「周辺には桜島などの火山がある」と、でたらめな社説を展開する。マスコミは住民とひとくくりで表現するが、ごく一部の反対派住民にすぎないのではないか。一体何人の人間が本当に不安と言っているのか、桜島がどのくらい離れているのか分かっているのだろうか。
この様な不合理な裁判が繰り返し行われることの無駄は計り知れない。
司法関係者の負担を軽減することを第一の目的とし、国民全体に多大な損失を与えることがないような方法を導入することを第二の目的として、米国の原子力規制委員会(NRC)の制度に倣うことを考えてはどうだろうか。
以前にもこのIOJだよりで取り上げたのであるが、原子力規制という極めて高度の科学技術の知見が要求される制度がきちんと機能するためには、専門家による正しい判断が可能な組織を規制委員会の周辺に設置することが必要であると考えられるのである。
NRCにはASLBP (原子炉安全許認可会議パネル)と呼ばれる組織が備わっており、NRCの行政措置に不満のある関係者(これには当然原子力発電所近傍に住む住民も含まれる)がその措置に対して不服申し立てをすれば、ここが第三者的にその不服を審査する制度となっている。
ASLBPは、3名の常任審査官(裁判所判事に相当)および32名の非常勤審査官(判事相当であるが、技術、法律の専門家でPhDレベルの人材が選任されている)で構成されており、合理的な判断を可能とする組織である。日本にはまだ無い。
NRCの行政措置に関して問題ありと考える関係者は、裁判所ではなくASLBPに提訴すれば、技術的な側面、法律的側面などを含め合理的な判断がされるようになっているのである。技術的には全くの素人である裁判官が非常識な判決を出すことのできる日本の制度は早急に改めて、海外の良い事例を導入することを真剣に検討すべき時が来ているのでは
ないだろうか。(伊藤 英二 記)
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