IOJだより マスコミ関連 編集局執筆者の”黙ってはいられない”氏は、科学的装いを取りながら、実は原発の再稼働反対を意図した読者を欺くまやかしである、と糾弾しています。
1.記事の概要
12月23日付の毎日新聞の朝刊の一面と三面に「巨大噴火 原発のリスク」という記事が大見出しで掲載された。また例の誇大記事かと思いつつ読んだら、案の定、原発の運転再開反対を煽る記事だった。こういった“まやかし”記事を何度も書くと、信用を落とすことにならないか、と心配になる。
記事は、規制委の審査の対象になっている6基の原発のほとんどが問題なしとされているのに、50名(134名中)の大学教官にアンケート調査を行い、
それを我田引水的に引用して、運転再開に対する懸念を読者に刷りこもうという見え見えの記事である。バカバカしいとは思いつつ、これに引っ掛けられ、原発の運転再開に見切りをつける読者も予想されるので、この記事がどういう風に“まやかし”であるかを分析してみた。
2.記事が“まやかし”であることの概要
現代国語辞典によれば、“まやかし”とは“まやかす”ことで、“まやかす”とは「紛らわして欺くこと」という。IOJではこの“まやかし”という言葉を飯田哲也氏の自然エネルギーに関する主張に対し多用してきた。マスコミや国民が彼の主張に惹かれていた時、それは“まやかし”であると指摘したのである。ドイツやスペインそしてオバマのグリーン政策などの現状を見れば、ヨーロッパの実情に基づいていたにしても、その評価や主張は疑いようもなく人々を「紛らわして欺く」ものであった。彼は、知事選に敗れ、嘉田新党に加担して失敗した。
この毎日の記事はよく読めば、科学的装いを取りながら、実は原発の再稼働反対を意図した記事であることに気付く。この科学的装いの中に、現実にはありえない話をリスクという言葉を振り回して、さも現実に起こりうるかのように暗示している。「火砕流に襲われれば原発は大事故になる」と、いつもの煽り。襲われればそういうことになろう。問題はそのリスクが非現実的に低いことである。現実性があれば定量的な説明をすればよいが、それができない。日本語には論理がなく情緒に訴えて諄々に説くといわれることを連想させる。巨大噴火がまず起こらず、起こっても原発に至る可能性はゼロに近いだろうと思える。定量的な記述がないのでこの
思いをひっくり返すことはできない。事実を紛らわせて読者を欺いているようなもの。それ故、この記事は“まやかし”であると言いたい。これらの点を以下に分析してみよう。
3.記事が“まやかし”であることの分析
反原発記事にいつも付きまとう特徴は、1)定量性にふたをし、2)科学を我田引水的に利用し、3)客観性に乏しい(誰にどんな質問したか全体像を示さない)アンケート結果を利用し、4)あらかじめ記事の前提である結論に読者を誘導する、ということにある。この記事はこれらの条件にぴったり当てはまる。読者の多くは原子力や火山学の専門家ではないから、記事の本質が“まやかし”であることに気がつかない。このようなやり方で国民が反原発に誘導されている状況は国の将来を誤ることに繋がるだけに、厳しく批判していくことが重要である。原発の運転停止がアベノミクスの足を引っ張り、経済再生を妨げることになるのを良しとする反原発新聞の姿勢はどこからくるのだろうか。
今の“空気”の下では禁句になっていて口に出せないが、原発は十分な安全対策が取られたので、十分安全なのである。それにも拘わらず、過剰な安全性を求めて、危険だ、危険だといつまでも騒ぐのは、国力を衰退させ、国民に大きな経済的負担をかけることに繋がると指摘したい。
テレビの汚染水報道が良い例で、漏れた放射能の“量”については報道しない。無視できる量の放出でもあたかも重大事のように報道する。風評被害をわざと引き起こして、福島問題の解決を妨げているのは反原発・反日マスコミではないか。情報を巧妙に操作して言論の自由を悪用しているマスコミは、我が国にとって大きな国民的課題であり、こういった意図的な“まやかし”記事は厳しく糾弾されるべきであろう。チェルノビル事故の後遺症を克服したウクライナでは、こういった記事をcontaminated information(情報汚染)と呼び、復興の最大の障害になっていたという。避難民の言明である。マスコミのこういった悪意のある記事が復興の最大の障害である事実は我が国でも同様である。長い間、朝日、毎日、東京各紙、NHK、テレビ朝日の報道ステーション等が巧妙に誘導して来た負の側面について、気がつくべきではないだろうか。
3.1 定量性に目をつぶる非科学的記事
この「巨大噴火 原発のリスク」のタイトルも、原発は火砕流によって大事故が今にも起こると暗示にかけようとしている。巨大噴火が起こる確率は実は判らないと言いつつ、論理のすり替えを行い、原発の危機感を煽る。巨大な隕石が日本列島に落下し日本が滅亡に陥ることを否定できないという論法と同じで、記事は詭弁に近い。
原発事故の評価は定量性を抜きにしては議論にならない。日本語には論理がなく情緒に訴える言語だから、こういう記事は読者の頭にすっと入る。この世では、リスクは常にゼロではない。だから「火砕流による原発事故はゼロではない」は嘘ではないだろうが、一面でスクープの如く取り上げる題材ではない。カルデラがあれば原発に大きな被害を及ぼすという単純な推論。その定量的リスクはいかほどか。学者も答
えられないと言っている。そんな記事を一面に載せるとは、大新聞の品位にかかわらないか。定量性をもって示さなければ、非科学的と言われても仕方があるまい。大学教授たるもの、そんな“まやかし”記事に利用されて恥ずかしくないのだろうか。
3.2 科学的信憑性に欠ける記事
記事はいう「火砕流が到達した場合は運転員の生存が見込めない(林 秋田大教授)」と。到達の状況もはっきりさせないで、憶測をいうのはいい加減にして欲しい。北海道の半分ほどの隕石が日本に落下したら、林教授の生存は見込めない、というのと同じで、非現実的な話以上にどんな意味があるのか。記者はリスクの意味を理解して記事を書いているのだろうか。百万年に一度の事故は、無視してよいし、万一起きたときの放射能を環境に放出しない工学的対策があれば、運転は容認してよいのである。そういうものでさえ防止したいというのは、巨大隕石を防ぐにはどうしたらよいか、といった問題と同様非現実的である。現状を思えば、運転再開は急がなければならず、経済が沈滞し、失業者が増え、若者の就職さえままならなくなることの方が重要だろう。空論と現実を紛らわせて危険を煽るのはよくない。
3.3 アンケートに答えた大学教官の資格要件は何か
このような“まやかし”記事を一面に掲載するのであれば、アンケート内容の詳細と回答した大学教官の名前を出すべきである。アンケートの信憑性をあげるためには、解答者の資格要件を納得させる何らかのエビデンスが必要ではないか。そうしないといつも実施者(新聞社)の恣意性が反映され結果を操作できる。大学教授もピンキリだから、何らかの資格要件は必要。大学教授という肩書だけで通用する時代は終わっていないだろうか。
要するに判断基準や判定基準が要るのである。原子力にはこのような基準が一番必要なのに、最も欠けている。そういう目でみると毎日新聞のアンケート記事は恣意的で“まやかし”という評価が付きまとうことになる。回答者としての要件をまやかしにしているアンケートはどこまで信用できるのか、大きな問題である。
この資格要件の問題の恣意性を理解しないと、過去に安全審査に加わった審査員を排除して、そうでない新鮮な専門家を入れるとする田中委員長や島崎委員の偏向した方針になる。有識者の選択過程が公正であることを巧妙に装い、気に入った委員を恣意的に選んでいるが、審査技量を判断する基準がないから活断層問題の場合、著しく偏った結論が導かれている。
3.4 規制は科学的であると同時に現実的であるべし
規制委員会は川内、玄海、伊方、大飯、高浜、泊、の六原発を対象に審査を進めていて、泊以外は運転に影響はないとしている。記事は、「審査の過程では、巨大噴火の科学的知見は少なく、審査に限界があることも浮かんだ」としている。そもそも、巨大噴火の科学的知見がないのに運転再開を妨げようとする記事を一面に載せる見識が疑われるのである。
また、記事は、『前兆現象から「巨大噴火の切迫を正しく評価できる」と答えたのは50人中わずか5人』と言う。有史以降の観測例がない巨大
噴火の予知は困難というのが火山学者の大勢だというが、当たり前ではないか。記事は、鹿児島大の井村准教授は「巨大火砕流が川内原発敷地内まで到達した可能性は否定できない」と指摘した、という。規制委員会の権威を落として止まない島崎委員の悪評高き「否定できない」論理の持ち込みである。活断層の存在を否定できなければ、活断層はあるかもしれない、といいつつ、原子炉の存在の否定につなげようと謀る。これも“まやかし”の論理である。
4.結 言
先の衆院選と参院選で自民党は圧勝し、絶対的な安定多数を確保した。あれだけ反原発を煽り、あれだけ世論調査の大勢は反原発だと主張していた反原発マスコミ、それに乗った野党。反原発に期待して原発ゼロを絶叫した。結果は、見るも無残な惨敗の憂き目に会った。どうして、偏った世論調査を見抜けなかったのか。気の毒だったのは嘉田新党党首だった。
これらはもう済んだことである。瞠目すべきことは、安倍政権が日本を活性化し新生日本を取り戻すための政策を次々と打ち出し、成功させている点である。この安倍政権は朝日などが応援して生み出した民主党政権の失政を修復しているだけでなく、誠に日本の将来を構想し、実現に向けて着実に政策を実行している。これまで誰もできなかった日本復活の大事業に取り組み、是非成功させてもらいたいと希求したい。
朝日、毎日、NHKなどがこのような偏向報道を巧妙に行い続けるとどうなるか、国民は深刻に反省すべきであろう。言論の自由が一部マスコミを特権階級にしてしまっている現状、これらは早晩矯正されるべきではないか。無制限の自由など、百害あって一利なし、人類共通の普遍原理である。マスコミが節操を失えばどうなるか、歴史上の暴君が権力をほしいままにした結果はどうだったか、言論の自由の名のもとに行われている報道機関の勝手な世論誘導に何らかの制約をくわえる措置は必要ではないか。会員と一緒に考えて行きたい。来年こそ原子力に覆いかぶさる暗雲が晴れ、良い年になることを祈念したい。
(K.M.記)
印刷(pdf)はこちらから
IOJだより pdf
12月23日付の毎日新聞の朝刊の一面と三面に「巨大噴火 原発のリスク」という記事が大見出しで掲載された。また例の誇大記事かと思いつつ読んだら、案の定、原発の運転再開反対を煽る記事だった。こういった“まやかし”記事を何度も書くと、信用を落とすことにならないか、と心配になる。
記事は、規制委の審査の対象になっている6基の原発のほとんどが問題なしとされているのに、50名(134名中)の大学教官にアンケート調査を行い、
それを我田引水的に引用して、運転再開に対する懸念を読者に刷りこもうという見え見えの記事である。バカバカしいとは思いつつ、これに引っ掛けられ、原発の運転再開に見切りをつける読者も予想されるので、この記事がどういう風に“まやかし”であるかを分析してみた。
2.記事が“まやかし”であることの概要
現代国語辞典によれば、“まやかし”とは“まやかす”ことで、“まやかす”とは「紛らわして欺くこと」という。IOJではこの“まやかし”という言葉を飯田哲也氏の自然エネルギーに関する主張に対し多用してきた。マスコミや国民が彼の主張に惹かれていた時、それは“まやかし”であると指摘したのである。ドイツやスペインそしてオバマのグリーン政策などの現状を見れば、ヨーロッパの実情に基づいていたにしても、その評価や主張は疑いようもなく人々を「紛らわして欺く」ものであった。彼は、知事選に敗れ、嘉田新党に加担して失敗した。
この毎日の記事はよく読めば、科学的装いを取りながら、実は原発の再稼働反対を意図した記事であることに気付く。この科学的装いの中に、現実にはありえない話をリスクという言葉を振り回して、さも現実に起こりうるかのように暗示している。「火砕流に襲われれば原発は大事故になる」と、いつもの煽り。襲われればそういうことになろう。問題はそのリスクが非現実的に低いことである。現実性があれば定量的な説明をすればよいが、それができない。日本語には論理がなく情緒に訴えて諄々に説くといわれることを連想させる。巨大噴火がまず起こらず、起こっても原発に至る可能性はゼロに近いだろうと思える。定量的な記述がないのでこの
思いをひっくり返すことはできない。事実を紛らわせて読者を欺いているようなもの。それ故、この記事は“まやかし”であると言いたい。これらの点を以下に分析してみよう。
3.記事が“まやかし”であることの分析
反原発記事にいつも付きまとう特徴は、1)定量性にふたをし、2)科学を我田引水的に利用し、3)客観性に乏しい(誰にどんな質問したか全体像を示さない)アンケート結果を利用し、4)あらかじめ記事の前提である結論に読者を誘導する、ということにある。この記事はこれらの条件にぴったり当てはまる。読者の多くは原子力や火山学の専門家ではないから、記事の本質が“まやかし”であることに気がつかない。このようなやり方で国民が反原発に誘導されている状況は国の将来を誤ることに繋がるだけに、厳しく批判していくことが重要である。原発の運転停止がアベノミクスの足を引っ張り、経済再生を妨げることになるのを良しとする反原発新聞の姿勢はどこからくるのだろうか。
今の“空気”の下では禁句になっていて口に出せないが、原発は十分な安全対策が取られたので、十分安全なのである。それにも拘わらず、過剰な安全性を求めて、危険だ、危険だといつまでも騒ぐのは、国力を衰退させ、国民に大きな経済的負担をかけることに繋がると指摘したい。
テレビの汚染水報道が良い例で、漏れた放射能の“量”については報道しない。無視できる量の放出でもあたかも重大事のように報道する。風評被害をわざと引き起こして、福島問題の解決を妨げているのは反原発・反日マスコミではないか。情報を巧妙に操作して言論の自由を悪用しているマスコミは、我が国にとって大きな国民的課題であり、こういった意図的な“まやかし”記事は厳しく糾弾されるべきであろう。チェルノビル事故の後遺症を克服したウクライナでは、こういった記事をcontaminated information(情報汚染)と呼び、復興の最大の障害になっていたという。避難民の言明である。マスコミのこういった悪意のある記事が復興の最大の障害である事実は我が国でも同様である。長い間、朝日、毎日、東京各紙、NHK、テレビ朝日の報道ステーション等が巧妙に誘導して来た負の側面について、気がつくべきではないだろうか。
3.1 定量性に目をつぶる非科学的記事
この「巨大噴火 原発のリスク」のタイトルも、原発は火砕流によって大事故が今にも起こると暗示にかけようとしている。巨大噴火が起こる確率は実は判らないと言いつつ、論理のすり替えを行い、原発の危機感を煽る。巨大な隕石が日本列島に落下し日本が滅亡に陥ることを否定できないという論法と同じで、記事は詭弁に近い。
原発事故の評価は定量性を抜きにしては議論にならない。日本語には論理がなく情緒に訴える言語だから、こういう記事は読者の頭にすっと入る。この世では、リスクは常にゼロではない。だから「火砕流による原発事故はゼロではない」は嘘ではないだろうが、一面でスクープの如く取り上げる題材ではない。カルデラがあれば原発に大きな被害を及ぼすという単純な推論。その定量的リスクはいかほどか。学者も答
えられないと言っている。そんな記事を一面に載せるとは、大新聞の品位にかかわらないか。定量性をもって示さなければ、非科学的と言われても仕方があるまい。大学教授たるもの、そんな“まやかし”記事に利用されて恥ずかしくないのだろうか。
3.2 科学的信憑性に欠ける記事
記事はいう「火砕流が到達した場合は運転員の生存が見込めない(林 秋田大教授)」と。到達の状況もはっきりさせないで、憶測をいうのはいい加減にして欲しい。北海道の半分ほどの隕石が日本に落下したら、林教授の生存は見込めない、というのと同じで、非現実的な話以上にどんな意味があるのか。記者はリスクの意味を理解して記事を書いているのだろうか。百万年に一度の事故は、無視してよいし、万一起きたときの放射能を環境に放出しない工学的対策があれば、運転は容認してよいのである。そういうものでさえ防止したいというのは、巨大隕石を防ぐにはどうしたらよいか、といった問題と同様非現実的である。現状を思えば、運転再開は急がなければならず、経済が沈滞し、失業者が増え、若者の就職さえままならなくなることの方が重要だろう。空論と現実を紛らわせて危険を煽るのはよくない。
3.3 アンケートに答えた大学教官の資格要件は何か
このような“まやかし”記事を一面に掲載するのであれば、アンケート内容の詳細と回答した大学教官の名前を出すべきである。アンケートの信憑性をあげるためには、解答者の資格要件を納得させる何らかのエビデンスが必要ではないか。そうしないといつも実施者(新聞社)の恣意性が反映され結果を操作できる。大学教授もピンキリだから、何らかの資格要件は必要。大学教授という肩書だけで通用する時代は終わっていないだろうか。
要するに判断基準や判定基準が要るのである。原子力にはこのような基準が一番必要なのに、最も欠けている。そういう目でみると毎日新聞のアンケート記事は恣意的で“まやかし”という評価が付きまとうことになる。回答者としての要件をまやかしにしているアンケートはどこまで信用できるのか、大きな問題である。
この資格要件の問題の恣意性を理解しないと、過去に安全審査に加わった審査員を排除して、そうでない新鮮な専門家を入れるとする田中委員長や島崎委員の偏向した方針になる。有識者の選択過程が公正であることを巧妙に装い、気に入った委員を恣意的に選んでいるが、審査技量を判断する基準がないから活断層問題の場合、著しく偏った結論が導かれている。
3.4 規制は科学的であると同時に現実的であるべし
規制委員会は川内、玄海、伊方、大飯、高浜、泊、の六原発を対象に審査を進めていて、泊以外は運転に影響はないとしている。記事は、「審査の過程では、巨大噴火の科学的知見は少なく、審査に限界があることも浮かんだ」としている。そもそも、巨大噴火の科学的知見がないのに運転再開を妨げようとする記事を一面に載せる見識が疑われるのである。
また、記事は、『前兆現象から「巨大噴火の切迫を正しく評価できる」と答えたのは50人中わずか5人』と言う。有史以降の観測例がない巨大
噴火の予知は困難というのが火山学者の大勢だというが、当たり前ではないか。記事は、鹿児島大の井村准教授は「巨大火砕流が川内原発敷地内まで到達した可能性は否定できない」と指摘した、という。規制委員会の権威を落として止まない島崎委員の悪評高き「否定できない」論理の持ち込みである。活断層の存在を否定できなければ、活断層はあるかもしれない、といいつつ、原子炉の存在の否定につなげようと謀る。これも“まやかし”の論理である。
4.結 言
先の衆院選と参院選で自民党は圧勝し、絶対的な安定多数を確保した。あれだけ反原発を煽り、あれだけ世論調査の大勢は反原発だと主張していた反原発マスコミ、それに乗った野党。反原発に期待して原発ゼロを絶叫した。結果は、見るも無残な惨敗の憂き目に会った。どうして、偏った世論調査を見抜けなかったのか。気の毒だったのは嘉田新党党首だった。
これらはもう済んだことである。瞠目すべきことは、安倍政権が日本を活性化し新生日本を取り戻すための政策を次々と打ち出し、成功させている点である。この安倍政権は朝日などが応援して生み出した民主党政権の失政を修復しているだけでなく、誠に日本の将来を構想し、実現に向けて着実に政策を実行している。これまで誰もできなかった日本復活の大事業に取り組み、是非成功させてもらいたいと希求したい。
朝日、毎日、NHKなどがこのような偏向報道を巧妙に行い続けるとどうなるか、国民は深刻に反省すべきであろう。言論の自由が一部マスコミを特権階級にしてしまっている現状、これらは早晩矯正されるべきではないか。無制限の自由など、百害あって一利なし、人類共通の普遍原理である。マスコミが節操を失えばどうなるか、歴史上の暴君が権力をほしいままにした結果はどうだったか、言論の自由の名のもとに行われている報道機関の勝手な世論誘導に何らかの制約をくわえる措置は必要ではないか。会員と一緒に考えて行きたい。来年こそ原子力に覆いかぶさる暗雲が晴れ、良い年になることを祈念したい。
(K.M.記)
ページのトップへ戻る
印刷(pdf)はこちらから
IOJだより pdf