1. はじめに
本号は“IOJだより”100号である。非力な私たちが3年以上に渡って、原子力の正常化に向けた努力をここまで続けられるとは今更ながら驚きである。またここまで来たかという安堵感もある。ボランティアとして参加してくれた編集委員諸氏が、侃々諤々の議論を重ねた結果100回に及ぶ刊行を可能とした。3年間で35万の閲覧件数は素人集団としては想定外であった。我々は少し胸を張っても良いのだろう。また“IOJだより”を愛読していただき、励ましの声をお寄せくださった会員諸氏には感謝あるのみである。
しかしながら、ここで諦めてはならない困難な課題がある。
正常化が難しい根幹的な理由は国民の“核アレルギー”にある。この社会現象は前から知られていたのに、正面から挑戦したマスコミは存在しなかった。非力なIOJの努力だけでは効果は目に見えず、未だに事態の改善の兆しはない。むしろ、それは福島原発事故で増幅され、問題解決の可能性は押しのけられてしまった。世論調査の信憑性はさておき、運転再開に半数が反対という報道が難しさを示している。
2. 問題の所在
問題の核心はどこにあるのか、国民の伝統的倫理観に根差しているように思われる。象徴的にいえば、「どうしたって原発は怖い」のである。
では、このような事態と「原子力なくしてこの国は立ち行かぬ」という認識とはどのように“折り合い”をつけられるのか。
1. はじめに
本号は“IOJだより”100号である。非力な私たちが3年以上に渡って、原子力の正常化に向けた努力をここまで続けられるとは今更ながら驚きである。またここまで来たかという安堵感もある。ボランティアとして参加してくれた編集委員諸氏が、侃々諤々の議論を重ねた結果100回に及ぶ刊行を可能とした。3年間で35万の閲覧件数は素人集団としては想定外であった。我々は少し胸を張っても良いのだろう。また“IOJだより”を愛読していただき、励ましの声をお寄せくださった会員諸氏には感謝あるのみである。
しかしながら、ここで諦めてはならない困難な課題がある。それは原子力の正常化である。建設的な主張が日本中で挙がっているにも拘らず、原子力規制行政が独善と孤立を頑なに守り、規制行政に改善の兆しが見られず、運転再開の見通しがはっきりしないことである。これまでの規制委員会の姿勢を思えば、川内原発が設置許可申請に合格したからと言って運転再開が軌道に乗ったとするのは甘い。規制行政の“牛歩戦術”が改まる兆しはないからである。
正常化が難しい根幹的な理由は国民の“核アレルギー”にある。この社会現象は前から知られていたのに、正面から挑戦したマスコミは存在しなかった。非力なIOJの努力だけでは効果は目に見えず、未だに事態の改善の兆しはない。むしろ、それは福島原発事故で増幅され、問題解決の可能性は押しのけられてしまった。世論調査の信憑性はさておき、運転再開に半数が反対という報道が難しさを示している。
2. 問題の所在
問題の核心はどこにあるのか、国民の伝統的倫理観に根差しているように思われる。象徴的にいえば、「どうしたって原発は怖い」のである。
では、このような事態と「原子力なくしてこの国は立ち行かぬ」という認識とはどのように“折り合い”をつけられるのか。
「このような事態」が国民の情緒的側面と密接に絡み、後者は経済という物質的側面に論拠を求める。フランソワ・ギゾーの「ヨーロッパ文明史」や福沢諭吉の「文明論之概略」によれば、文明は物質的側面と精神的側面の両方を持つという。この事実が、「文明論」なら“折り合い”をつけてくれるかも知れないとの期待を抱かせる。では、この“折り合い”問題をどう解決するのか、理論的な解決策は何とか導出できても、心理的に国民に受け入れてもらえるかどうか、その要件は何か、これが問題の核心である。
3. 問題解決へのアプローチ
“IOJだより”100号を一区切りとし、次の展開を遠望したとき、取り組むべき重要課題は何か。 “原子力文明論”を
基軸にして論を進めて行く、ということである。その理由は、原子力文明論は「状況に左右されない判断基準」を提供してくれるから。原子力の混迷の中にあって、今ほどそれが望まれている時はないからである。そうは云っても、これまでの論題を排除するものではない。
「文明の進歩は歴史が証人である」ことは、福沢諭吉著の「文明論の概略」の第8章の「西洋文明の由来」と第9章の「日本文明の由来」に目を通せば明白。人は歴史から逃げることはできない。だとすると歴史から学ぶことが最も重要で、普遍的な判断基準は歴史にあり、それが抽象化されたものとして“文明論”がある。この点が今後原子力問題を歴史的視点に立った「文明論」として捉えていく理由である。
では判断基準は何に適用するのか。文明論的視点から、原子力規制委員会の振る舞い、国民の放射能アレルギーと核アレルギー、反原発主張、を評価していくのを当面の課題としたい。成功するかどうか、一つの「新しい実験」ではある。
4. 日本人の心とは;三大噺(ばなし)
私達の原子力文明論はひとまず技術的側面に軸足を置かない。物質的側面である原子力技術は十分に発達しており特段の問題はないからである。高度に発達した原子力技術が社会的に十分受容されていない点が問題で、これを文明の精神的側面から検討する。言い換えれば、原子力にまつわる国民の意識とその改善に肉薄したいのである。
唐突ではあるが、序論として、国民の伝統的精神あるいは倫理観は何か、について探りを入れてみたい。
(1)日本教
イザヤ・ベンダサンの著書「日本教について」に、不思議な物語が紹介されている。概要は以下のとおり。
昔、徳川家康が駿河の領主であったとき、頻発する一向一揆の乱に悩まされていた。そこで一揆を鎮圧するため、有能な部下を当地に赴かせた。しかし、彼は期待されたように成果をあげない。家康が督戦に来れば反乱軍と戦うが、去れば戦闘を中止した。理由は、彼が一向宗の信者だったことにある。やがて真実が露見し、彼は白洲に引き出され家康の打ち首にあうことになった。
刀を振り上げた家康は、可愛い部下を失いたくない一心から思い直し、彼に「その者、処刑か改宗か、どちらかを選べ」と申し付けた。ところが、部下は平然として「いえ、改宗いたしません。どうぞ処刑してください」と答え、首を差し出した。家康はどうしたものか思案した後、「どうしようもない奴だ。こんな奴、打ち首にしてもしょうがない」といって刀を放り投げた。その瞬間、部下曰く「殿様、ただいま改宗しました」と。家康曰く「お前はなんというひねくれ者だ。処刑すると言えば改宗しないと言い、処刑をやめれば改宗するという、どういうわけだ」と聞いた。部下曰く「命が惜しくて改宗したといわれることは侍の意地が許さない。だがこれで私は、たとえ改宗しても、命おしさに改宗したの
ではないことが明らかになりましたので改宗します」、という話。このような武士の意地と原子力文明の精神的側面は関係するのだろうか。このような精神は原発推進の経済的便益の主張は受け付けまい。以下に述べるように我々は「全滅なら全滅で結構だ」という人種だから。
(2)“状況”と妥協し無心に返る日本人の倫理観
「状況はまったく判らなくなった。判らないなら判らないで仕方がない。あくまでも初心を貫徹するまでだ。それで全滅なら、全滅で結構だ。」これは敗戦間近い日本兵の心意気であった。異常な状況に置かれた日本兵士の振舞とやはり極限状況に置かれたネズミの挙動との類似性。これについてはIOJだより92号で詳述した。
状況不明の中で行動しなければならないとき、日本人はどう振る舞うか。岸田氏はネズミと類似であると分析した※ 注。この時日本人の得心の構造は、「全滅なら全滅で結構だ」という“潔さ”に裏打ちされた心的状況にあろう。死ぬのが怖くて戦争をやっていられるかという心意気は“武士の意地”に通じるものがある。そしてこの“潔さ”がどういう形を取るか、状況に依存する。いわゆる状況倫理である。原発をゼロにして日本はどうなるか、不安を感じるが、将来は不透明なのだから、原発ゼロで失敗してもそれならそれで結構だ、という“諦念付き潔さ”で思考停止に陥る。原発は怖い、放射能も怖い、失敗しても結構だといった“潔さ”、このような伝統的心理の背後に、それを支配する心の“DNA” は存在するのだろうか。日本人独特の“心のネットワーク” (三項表象の規制、保全の潮流-第一号、保全学会HP参照) が解明の手がかりとなるかも知れない。※注『日本人と「日本病」について 山本七平/岸田秀、文芸春秋』
これは、言語の根幹がヤコブソンの弁別素性(DNA)からチョムスキーの生成文法に至るプロセスにあることや、原発の恐れや放射能忌避感が深層構造から表層構造に至るプロセスに解決の糸口があるかもしれない。
(3)恩田木工(おんだ もく)の対話方式
恩田木工は徳川時代に真田藩の財政立て直しに奇跡的に成功した家老であるが、その秘訣は独特の徹底した“対話方式”にあった。その話は先の「日本教について」に紹介されている。要点は、
1)自らを私心が一点もない純粋人間であることの証明。木工の方法と気迫は凄まじい。妻との離別、子の勘当、使用人の解雇、質素な生活への転換、などを実行しようとする。なんとしてでも相手に自らの“純粋さ”を信じてもらうため。
2)純粋に領民のことを最優先することを前提にした話し合いの開始。
3)相手(領民)に無理難題(借金の棒引きなど)を呑んでもらう大義名分として、お殿様のこと、領民のことを最優先することについての了解。
話し合いの結果として、藩の財政難は解決する。領民は法外な木工のお願いを涙を流して受け入れるのである。西洋の合理的価値観はこれを絶対に理解できない。原子力界に一人で
もこのような純粋人がいたとすれば、国民の原子力に対する信頼度は大きな違いを見せたであろう。これは文明の最先端の姿かもしれないが、がんじがらめに組織化された現代社会にあって、木工のような対話方式は可能だろうか。
内村鑑三の「代表的日本人」の中に、瀕死の会津藩の財政を立て直した藩主・上杉鷹山の紹介がある。木工や鷹山が相手にした当時の領民の道徳レベルと現在の反原子力派の振る舞いを比べてみたとき、我々は文明論的に退化したのではないか。日教組教育はこのような純粋日本人の存在や道徳心を根こそぎにした。原子力混迷の一因であろう。
文明論に精神的側面から迫ろうとすると、変えがたい日本人の精神的“DNA”と明治の科学的啓蒙活動に見られる教育効果に分けて分析することが肝心だと思う。では具体的にどうするか。
5.文明論に何を期待するか
先に「文明論」は“判断基準”を提供してくれるといった。それは、将来を見通した判断基準だ。福島原発事故を見て悲惨だから原発ゼロに走るという情緒的判断には“将来” という時間軸がない。朝日、毎日、東京各新聞の反原発主張にはこの“時間軸”が欠落している。それ故、文明論の本質から彼らの主張を見ると、その主張は数年後には破たんするであろうと思われる。原発ゼロを決めたが、それでは国を運営できないことが判明したため原発活用に回帰したウクライナを見ればよい。文明論を無視した主張はどこかに致命的欠陥を持つ。
第二の恩恵は、文明論は“歴史的視点”に立つことの重要性を示す。日本で一億余りの国民が幸せに暮らせていける根拠は、2,000年の歴史的遺産にある。ゆがんだ日教組教育は70年継続しているが、日本人から歴史的遺産を消すことはできなかった。
第三の恩恵は、「文明論の概略」(福沢諭吉)第1章に多く例示されている。「神仏の説、常に合わず、主張するところを聞けば何れも尤もの様に聞ゆれども、その本を尋ねれば、神道は現在の吉凶をいい、仏法は未来の禍福を説き、議論の本位を異にするを以て、両説遂に合わざるなり」と。その結果、「神仏儒の異論が落着する日はない」。議論の本位を弁えない議論は空しい。そして言う「これを和睦せしめんとすれば、各々の主張より一層高尚な新説を示して、新旧の得失を判断すべし」という。弓と剣はどちらが優れているかの議論は、小銃の出現で消滅した。小泉元首相の議論の本位をわきまえない主張は、議論の本位からほど遠い。それ故、文明論は第三の解の必要性を求めている。
6.おわりに
IOJだよりは、この100号をもって、ひと区切りとしたい。
原子力文明論は、対象の文明度(野蛮、半開、文明)を評価する基準を与え、様々な原子力現象を評価できる。活動の輪を国民レベルに拡げて原子力の新しい地平線が開けることを期待したい。
新年度からは、新たな視点に立って、IOJからの発信、提言を届けていきます。引き続き会員諸氏のあたたかいご支援を賜れば誠に幸甚に思う次第です。
IOJ 日本の将来を考える会
代表 宮 健三
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1. はじめに
本号は“IOJだより”100号である。非力な私たちが3年以上に渡って、原子力の正常化に向けた努力をここまで続けられるとは今更ながら驚きである。またここまで来たかという安堵感もある。ボランティアとして参加してくれた編集委員諸氏が、侃々諤々の議論を重ねた結果100回に及ぶ刊行を可能とした。3年間で35万の閲覧件数は素人集団としては想定外であった。我々は少し胸を張っても良いのだろう。また“IOJだより”を愛読していただき、励ましの声をお寄せくださった会員諸氏には感謝あるのみである。
しかしながら、ここで諦めてはならない困難な課題がある。
正常化が難しい根幹的な理由は国民の“核アレルギー”にある。この社会現象は前から知られていたのに、正面から挑戦したマスコミは存在しなかった。非力なIOJの努力だけでは効果は目に見えず、未だに事態の改善の兆しはない。むしろ、それは福島原発事故で増幅され、問題解決の可能性は押しのけられてしまった。世論調査の信憑性はさておき、運転再開に半数が反対という報道が難しさを示している。
2. 問題の所在
問題の核心はどこにあるのか、国民の伝統的倫理観に根差しているように思われる。象徴的にいえば、「どうしたって原発は怖い」のである。
では、このような事態と「原子力なくしてこの国は立ち行かぬ」という認識とはどのように“折り合い”をつけられるのか。
1. はじめに
本号は“IOJだより”100号である。非力な私たちが3年以上に渡って、原子力の正常化に向けた努力をここまで続けられるとは今更ながら驚きである。またここまで来たかという安堵感もある。ボランティアとして参加してくれた編集委員諸氏が、侃々諤々の議論を重ねた結果100回に及ぶ刊行を可能とした。3年間で35万の閲覧件数は素人集団としては想定外であった。我々は少し胸を張っても良いのだろう。また“IOJだより”を愛読していただき、励ましの声をお寄せくださった会員諸氏には感謝あるのみである。
しかしながら、ここで諦めてはならない困難な課題がある。それは原子力の正常化である。建設的な主張が日本中で挙がっているにも拘らず、原子力規制行政が独善と孤立を頑なに守り、規制行政に改善の兆しが見られず、運転再開の見通しがはっきりしないことである。これまでの規制委員会の姿勢を思えば、川内原発が設置許可申請に合格したからと言って運転再開が軌道に乗ったとするのは甘い。規制行政の“牛歩戦術”が改まる兆しはないからである。
正常化が難しい根幹的な理由は国民の“核アレルギー”にある。この社会現象は前から知られていたのに、正面から挑戦したマスコミは存在しなかった。非力なIOJの努力だけでは効果は目に見えず、未だに事態の改善の兆しはない。むしろ、それは福島原発事故で増幅され、問題解決の可能性は押しのけられてしまった。世論調査の信憑性はさておき、運転再開に半数が反対という報道が難しさを示している。
2. 問題の所在
問題の核心はどこにあるのか、国民の伝統的倫理観に根差しているように思われる。象徴的にいえば、「どうしたって原発は怖い」のである。
では、このような事態と「原子力なくしてこの国は立ち行かぬ」という認識とはどのように“折り合い”をつけられるのか。
「このような事態」が国民の情緒的側面と密接に絡み、後者は経済という物質的側面に論拠を求める。フランソワ・ギゾーの「ヨーロッパ文明史」や福沢諭吉の「文明論之概略」によれば、文明は物質的側面と精神的側面の両方を持つという。この事実が、「文明論」なら“折り合い”をつけてくれるかも知れないとの期待を抱かせる。では、この“折り合い”問題をどう解決するのか、理論的な解決策は何とか導出できても、心理的に国民に受け入れてもらえるかどうか、その要件は何か、これが問題の核心である。
3. 問題解決へのアプローチ
“IOJだより”100号を一区切りとし、次の展開を遠望したとき、取り組むべき重要課題は何か。 “原子力文明論”を
基軸にして論を進めて行く、ということである。その理由は、原子力文明論は「状況に左右されない判断基準」を提供してくれるから。原子力の混迷の中にあって、今ほどそれが望まれている時はないからである。そうは云っても、これまでの論題を排除するものではない。
「文明の進歩は歴史が証人である」ことは、福沢諭吉著の「文明論の概略」の第8章の「西洋文明の由来」と第9章の「日本文明の由来」に目を通せば明白。人は歴史から逃げることはできない。だとすると歴史から学ぶことが最も重要で、普遍的な判断基準は歴史にあり、それが抽象化されたものとして“文明論”がある。この点が今後原子力問題を歴史的視点に立った「文明論」として捉えていく理由である。
では判断基準は何に適用するのか。文明論的視点から、原子力規制委員会の振る舞い、国民の放射能アレルギーと核アレルギー、反原発主張、を評価していくのを当面の課題としたい。成功するかどうか、一つの「新しい実験」ではある。
4. 日本人の心とは;三大噺(ばなし)
私達の原子力文明論はひとまず技術的側面に軸足を置かない。物質的側面である原子力技術は十分に発達しており特段の問題はないからである。高度に発達した原子力技術が社会的に十分受容されていない点が問題で、これを文明の精神的側面から検討する。言い換えれば、原子力にまつわる国民の意識とその改善に肉薄したいのである。
唐突ではあるが、序論として、国民の伝統的精神あるいは倫理観は何か、について探りを入れてみたい。
(1)日本教
イザヤ・ベンダサンの著書「日本教について」に、不思議な物語が紹介されている。概要は以下のとおり。
昔、徳川家康が駿河の領主であったとき、頻発する一向一揆の乱に悩まされていた。そこで一揆を鎮圧するため、有能な部下を当地に赴かせた。しかし、彼は期待されたように成果をあげない。家康が督戦に来れば反乱軍と戦うが、去れば戦闘を中止した。理由は、彼が一向宗の信者だったことにある。やがて真実が露見し、彼は白洲に引き出され家康の打ち首にあうことになった。
刀を振り上げた家康は、可愛い部下を失いたくない一心から思い直し、彼に「その者、処刑か改宗か、どちらかを選べ」と申し付けた。ところが、部下は平然として「いえ、改宗いたしません。どうぞ処刑してください」と答え、首を差し出した。家康はどうしたものか思案した後、「どうしようもない奴だ。こんな奴、打ち首にしてもしょうがない」といって刀を放り投げた。その瞬間、部下曰く「殿様、ただいま改宗しました」と。家康曰く「お前はなんというひねくれ者だ。処刑すると言えば改宗しないと言い、処刑をやめれば改宗するという、どういうわけだ」と聞いた。部下曰く「命が惜しくて改宗したといわれることは侍の意地が許さない。だがこれで私は、たとえ改宗しても、命おしさに改宗したの
ではないことが明らかになりましたので改宗します」、という話。このような武士の意地と原子力文明の精神的側面は関係するのだろうか。このような精神は原発推進の経済的便益の主張は受け付けまい。以下に述べるように我々は「全滅なら全滅で結構だ」という人種だから。
(2)“状況”と妥協し無心に返る日本人の倫理観
「状況はまったく判らなくなった。判らないなら判らないで仕方がない。あくまでも初心を貫徹するまでだ。それで全滅なら、全滅で結構だ。」これは敗戦間近い日本兵の心意気であった。異常な状況に置かれた日本兵士の振舞とやはり極限状況に置かれたネズミの挙動との類似性。これについてはIOJだより92号で詳述した。
状況不明の中で行動しなければならないとき、日本人はどう振る舞うか。岸田氏はネズミと類似であると分析した※ 注。この時日本人の得心の構造は、「全滅なら全滅で結構だ」という“潔さ”に裏打ちされた心的状況にあろう。死ぬのが怖くて戦争をやっていられるかという心意気は“武士の意地”に通じるものがある。そしてこの“潔さ”がどういう形を取るか、状況に依存する。いわゆる状況倫理である。原発をゼロにして日本はどうなるか、不安を感じるが、将来は不透明なのだから、原発ゼロで失敗してもそれならそれで結構だ、という“諦念付き潔さ”で思考停止に陥る。原発は怖い、放射能も怖い、失敗しても結構だといった“潔さ”、このような伝統的心理の背後に、それを支配する心の“DNA” は存在するのだろうか。日本人独特の“心のネットワーク” (三項表象の規制、保全の潮流-第一号、保全学会HP参照) が解明の手がかりとなるかも知れない。※注『日本人と「日本病」について 山本七平/岸田秀、文芸春秋』
これは、言語の根幹がヤコブソンの弁別素性(DNA)からチョムスキーの生成文法に至るプロセスにあることや、原発の恐れや放射能忌避感が深層構造から表層構造に至るプロセスに解決の糸口があるかもしれない。
(3)恩田木工(おんだ もく)の対話方式
恩田木工は徳川時代に真田藩の財政立て直しに奇跡的に成功した家老であるが、その秘訣は独特の徹底した“対話方式”にあった。その話は先の「日本教について」に紹介されている。要点は、
1)自らを私心が一点もない純粋人間であることの証明。木工の方法と気迫は凄まじい。妻との離別、子の勘当、使用人の解雇、質素な生活への転換、などを実行しようとする。なんとしてでも相手に自らの“純粋さ”を信じてもらうため。
2)純粋に領民のことを最優先することを前提にした話し合いの開始。
3)相手(領民)に無理難題(借金の棒引きなど)を呑んでもらう大義名分として、お殿様のこと、領民のことを最優先することについての了解。
話し合いの結果として、藩の財政難は解決する。領民は法外な木工のお願いを涙を流して受け入れるのである。西洋の合理的価値観はこれを絶対に理解できない。原子力界に一人で
もこのような純粋人がいたとすれば、国民の原子力に対する信頼度は大きな違いを見せたであろう。これは文明の最先端の姿かもしれないが、がんじがらめに組織化された現代社会にあって、木工のような対話方式は可能だろうか。
内村鑑三の「代表的日本人」の中に、瀕死の会津藩の財政を立て直した藩主・上杉鷹山の紹介がある。木工や鷹山が相手にした当時の領民の道徳レベルと現在の反原子力派の振る舞いを比べてみたとき、我々は文明論的に退化したのではないか。日教組教育はこのような純粋日本人の存在や道徳心を根こそぎにした。原子力混迷の一因であろう。
文明論に精神的側面から迫ろうとすると、変えがたい日本人の精神的“DNA”と明治の科学的啓蒙活動に見られる教育効果に分けて分析することが肝心だと思う。では具体的にどうするか。
5.文明論に何を期待するか
先に「文明論」は“判断基準”を提供してくれるといった。それは、将来を見通した判断基準だ。福島原発事故を見て悲惨だから原発ゼロに走るという情緒的判断には“将来” という時間軸がない。朝日、毎日、東京各新聞の反原発主張にはこの“時間軸”が欠落している。それ故、文明論の本質から彼らの主張を見ると、その主張は数年後には破たんするであろうと思われる。原発ゼロを決めたが、それでは国を運営できないことが判明したため原発活用に回帰したウクライナを見ればよい。文明論を無視した主張はどこかに致命的欠陥を持つ。
第二の恩恵は、文明論は“歴史的視点”に立つことの重要性を示す。日本で一億余りの国民が幸せに暮らせていける根拠は、2,000年の歴史的遺産にある。ゆがんだ日教組教育は70年継続しているが、日本人から歴史的遺産を消すことはできなかった。
第三の恩恵は、「文明論の概略」(福沢諭吉)第1章に多く例示されている。「神仏の説、常に合わず、主張するところを聞けば何れも尤もの様に聞ゆれども、その本を尋ねれば、神道は現在の吉凶をいい、仏法は未来の禍福を説き、議論の本位を異にするを以て、両説遂に合わざるなり」と。その結果、「神仏儒の異論が落着する日はない」。議論の本位を弁えない議論は空しい。そして言う「これを和睦せしめんとすれば、各々の主張より一層高尚な新説を示して、新旧の得失を判断すべし」という。弓と剣はどちらが優れているかの議論は、小銃の出現で消滅した。小泉元首相の議論の本位をわきまえない主張は、議論の本位からほど遠い。それ故、文明論は第三の解の必要性を求めている。
6.おわりに
IOJだよりは、この100号をもって、ひと区切りとしたい。
原子力文明論は、対象の文明度(野蛮、半開、文明)を評価する基準を与え、様々な原子力現象を評価できる。活動の輪を国民レベルに拡げて原子力の新しい地平線が開けることを期待したい。
新年度からは、新たな視点に立って、IOJからの発信、提言を届けていきます。引き続き会員諸氏のあたたかいご支援を賜れば誠に幸甚に思う次第です。
IOJ 日本の将来を考える会
代表 宮 健三
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