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SEJ 日本のエネルギーを考える会

92号 会員の声  「原発推進・反対」と日本人の倫理観


カテゴリ:  原子力規制    2014-3-4 11:30   閲覧 (1691)

本稿の趣旨


我が国の現在の原発問題は泥沼化している。最大の原因は規制委員会に制約を設けなかった法制度の欠陥にある。制度設計の不備を洞察できなかった関係者の責任は大きい。一縷の望みは規制委員会による運転再開であるが、菅氏が反原発のため仕組んだと公言したように(北海道新聞4/30 ,2013)、島崎氏の恒常化した「後出しじゃんけん規制」や田中委員長の無意味で責任放棄の「パブコメ提案」の決定はこの望みを容赦なく打ち砕く。「規制は安全な原子力の活用が前提」を無視した規制委員会は何のためにあるのか、考え直す時期にきているのではないか。
現状を見るに解決の糸口は遠のき、規制委員会の無作為に期待する反原発グループに翻弄されるばかりである。規制委員会の権力の濫用と利用の精神を踏みにじる対応は我慢の限界を越していないか。その煽りを食らうのは産業や国民なのに、サイレントマジョリティーはどうしてよいか判らずにい
る。
今でも大江健三郎や坂本龍一などの芸術家がデモを組織し絶叫しているが、この状況が反原発の矛盾を表して余りある。科学・技術的に判断すれば彼らの主張に“勝ち目”はない。彼らは原発の代替を示せない。それだからこそ、情緒に頼らざるを得ず、「知の欠如は信の肥大化を生む」という状況を曝して恥じない。一般の人は気が付いていないが、反原発のプロが機会ある毎に、民主的手続きを妨害している様は目に余る。それを黙認しているのが反原発マスコミである。
ここには公正という文字はない。
“冷静な判断”を導くには“冷静でない判断”の起源を明らかにする必要がある。ここでは趣向を変え話題方式と質問形式を採用してみた。


話題1:ネズミと日本軍
[日本人と日本病について:山本七平/岸田秀 文藝春秋 1980年]


同書の“プロローグ”に岸田の鋭い指摘がある。厳しい状況に置かれたネズミが状況に応じてどう行動するか、実験結果の紹介である。極限状態に置かれた日本兵の挙動はネズミと同じではないか、という話。要約してみる。


「T字路の突き当たりを右に曲がれば餌があり、左に曲がれば電気ショックがある状況にネズミを置く。この時、右を明るく、左を暗くし、あるいは逆にしたりしても、ネズミは試行錯誤の後、餌のある方にだけ行くようになる。学習効果である。ところで、餌と電気ショック、明るくする・暗くす
る、の条件を規則的に変えているうちは餌にありつくが、不規則に変えるとネズミは状況を無視した固定的でかつ強迫的反応を示し始める。右側に曲がる反応が固定化すれば、餌があろうが電気ショックに行き当ろうが、いくら痛い目にあってもいつも右側に曲がる挙動を示す。」
岸田は言う。「このネズミの行動を擬人的に解釈すれば、ネズミは、規則性が発見できない状況に放り込まれてどうしてよいかわからず不安になり、しかし、腹が減ってくるから何らかの行動は起こさざるを得ないので、不安から逃れるため、とにかく根拠はないが右なら右へ曲がるという方針を決
定し、いったん決定すると、何度失敗しても断固として方針を変えないわけである。わたしには、このネズミと日本軍がダブって見える。」その結果、日本人は「情況は全く判らなくなった。判らなければ判らないで仕方がない。初志を貫徹するまでだ。それで全滅するなら全滅で結構だ。」といった心境になり実際そう行動した。これを原発問題に言い換えると、「反原発が正しいかどうか全く判らない。判らないなら判らないで仕方がない。断固、自分の生き方を貫き反対するだけだ。それで、日本が全滅するなら全滅で結構だ」となる。反原発派の挙動はこのネズミの挙動に似ていて、これではいつか来た道ではなかったのか、歴史を知る者には不安が募る。
このような情緒は「戦後は戦前の反対をやれば成功し、原爆を被ばくしたから原子力反対は平和につながる」という盲目的な信念を肥大化させた。「時代は変化し、かつてない国際状況にさらされ生き方に工夫がいる」のに、生き方を変えることができず、全滅しようがしまいがとにかく“戦前の反対”を貫くという姿勢の金縛りにあったまま。ネズミや追いつめられた日本兵と根本的に変わらない。
ここには状況に支配され易く、従って「空気」に唯々諾々として拘束される日本人の特性が明白。一般市民は「空気」の拘束にとらわれていて、冷静に実態を見る目を持たない。
そこで質問したい。
質問?:困難な状況に置かれた日本軍と反原発に狂奔するグループの行動は似ているかどうか。似ているとすればどこが似ているか。
質問?:戦後は戦前の反対をして成功した。失敗の反対は成功の要件であるという思い込みは時代の変化に追従できず、先のネズミの挙動と共通する。この見方を反原発に適用するとどうなるか。


話題2:西洋の二尊と日本の一尊
[空気の研究:山本七平 文春文庫 1983年、西洋紀聞:新井白石]


山本七平の“空気の研究”のあとがきに、新井白石の“西洋紀聞”に触れた興味深い記述がある。白石は、キリスト教布教の許しを将軍に乞うため1708年に日本に潜入し捕えられたイタリア人宣教師シドチを3回にわたって審問した。その内容を記した著書が西洋紀聞である。
白石は対話を通してシドチの中に2つの相容れない要素が混在していることに驚く。ひとつはシドチの人文科学上の知識と世界情勢に関する広範な認識であり、白石はこれを“賢なるもの”と呼び高く評価した。他方、彼をはるか遠方の日本に命をかけてまで布教に駆り立てたキリスト教。白石はシドチの志を理解できず、これを“愚なる”ものと呼んだ。この相異なったものが一人の人間の中に同居している事実に驚いたのであった。


「賢と愚」、これがシドチの中に共存している不思議。
忠、孝を旨とする儒教道徳に染まっていた当時の日本人はこのことが理解できない。日本での布教を懇願するシドチに対し白石は将軍 家宣に3つの策を献じ、2番目の策が採択され牢獄で息を引き取った。結局、キリスト教禁止策は変わらなかった。禁止の理由は、西洋人は常に「天(神)と現実」の
“二尊”を持つが日本人は、「臣は君を以て天とし、子は父を以て天とし、妻は夫を以て天とする」ため、「君、父、夫」を超えたものの存在はこの国には有害と考えたからである。
キリスト教では人はすべて“神”に直結する。神との関係は信仰であるが、同朋との関係は契約である。前者は縦の関係であるが、後者は横の関係である。このバランスが西洋にはあり日本にはない。科学・技術を生み出した近代思想と神は二尊であり、西洋はその共存に工夫を凝らしたが、明治はそれを受け入れなかった。放射能被曝に対する日本人の非科学性は神を基軸にした合理性を受け入れなかったことの当然の帰結である。日本人は状況に支配され易く科学がつけ入る
スキはない。冷静な対応ができなかったため、太平洋戦争で300万の日本兵が死んだのに米兵は30万人も死んではいない。理由は“状況支配”から脱却できなかったことにある。
この二尊の問題は「現人神と進化論」の共存がよい例である。戦前、人々は天皇を現人神と信じていた。同時に、学校で進化論も教えられていた。両者を結び付ければ、現人神の先祖は“サル”になる。この二尊は無意識の内に存在したが、誰もそれを口にせず、疑いを持たなかった。現人神は神聖化され国民の思考は停止したままであった。今で言えば、さしずめ、神聖化された憲法9条に対する思考停止であろう。
西洋では神の存在が科学とどう折り合うか、長い論争があった。その両者を結び付けるものが“神学”だった。神と現実を結び付けようという動機は日本人にはないから日本には本格的な“神学”はない。しかし、天皇の神格性を導出するため“神道”が機能していると思うが、それに対し筆者は無学である。
このような二尊の問題は、原発推進と反対をこの社会に共存させるある種の“神学”が生まれてよいはずなのに、それができない理由はどこにあるのか、といった問題を提起する。日本人の一尊からくる諸問題をどう克服するか、独創的な検討が望まれる。ヘーゲルの「正、反,合」と言った弁証
法は一つのヒントだと思うが、それを援用すればどうなるか、誰も考えようとしない。“正”は福島事故以前、“反”は事故の臨在観的把握に由来する反原発、“合”はそれらを超越した「新しい原子力の在り方」になるが、大江健三郎氏には低劣なデモに関わるよりこの哲学問題にかかわった方が
相応しいと言いたくなる。
質問?:原発推進と反対を融和させ社会に共存させる方策(原子力神学)はあるか。
質問?:相反するものの共存は便益を増幅させる効果がある。原発推進と反対の融合からどんな便益が期待できるか。


話題3:予定説と近代化
[日本人のためのイスラム原論:小室直樹 集英社 2002年]


日本人は先祖伝来一貫して汎神論的世界に住んでいる。この世界には一神論的世界特有の組織的体系的思想は生まれないし存在できない。キリスト教やユダヤ教では、人間は神によって創造されたとするが、日本では人が神を創造する。日本人は偶像崇拝を何とも思わないが、一神教ではそれは厳格
に排除する。日本人は「困った時の神頼み」を当然とするが、願えば叶えられるという因果律は、一神教では神を私物化していることになり徹底的に忌避される。中世に呪術を行い人々に恵みを施す事態が教会で日常茶飯事になって数百年継続したが、宗教改革でカルビンらによって「聖書に帰れ」と唱道され、神の恵みが否定され、プロテスタントが起こった。
そのカルビンは予定説を唱えた。現世における人々の行為は救いに全く関係なく、救いは神によってあらかじめ決められているという説である。功徳を積めば天国に行けるなどは妄想であるとした。救われるか救われないかは死ななければ判らない。これを聞いた信者は大変な不安に陥る。人々はどうするか。多くの人は、「救われる予定の人がする」であろう“行為”をひたすら行うことになる。例えば隣人愛に基づき善を施す。神のために資材を蓄え、それを社会のために使う。これが近代資本主義を起こさせたというのはマックス・ウエーバーである[プロテスタントの倫理と資本主義の精神]。
救われるか否かは神が決めていて死ぬまで判らない状況と、戦況がどうなっているか全く分からないという状況は、人間の心理に共通の不安を与える。この時、キリスト教信者は「神のためすべてを捧げて偉大な創造を生む」が、日本人は「自暴自棄になり高貴な精神を持って破滅」しがちである。この差が同じ戦争で一ケタ違う戦死者の差となった。
原子力混迷の根底には上に述べた情緒が存在し、科学が影響力を持てない点にある。西洋人が日本の反原発を理解しない理由である。予定説から派生した精神がヨーロッパの近代化を起こし近代資本主義を成立させたというのに、状況倫理に見られる日本的欠陥は放置されたままである。
質問?:日本人の行動規範は“状況”に大きく依存すると述べたが、その理由として以下のどれが最も正しいか。
(1)自分の考えで行動すると責任を自分で取らないといけなくなるから、
(2)長期的視点は面倒で、当面目先のことがうまくいけばよいと思うから、
(3)一神教のような絶対的基準を持たないから。
質問?:例えば、福島事故の中に無限の悲惨さを見る人と、事故の実態を相対化し無限の悲惨さは存在しないと思う人との違いはどこからくるか。
(1)悲惨さの意味を判断する基軸となる基準を持ってい
るかいないかによるから、
(2)臨在観的把握(物の怪に憑かれる)の金縛りを抜け出せるか、他の例と比較して有限性に気付くか、による(福島事故をチェルノと比べる、あるいは被爆地の広島・長崎では避難しなくて問題なかった事実)
(3)動揺と冷静の共存を制御できる心理的能力があるか否かによる。
最後に、話題1、2、3に共通する主題は何だろうか、考えていただければ幸いである。ご意見はHPのコメント欄にお寄せ下さい。
(宮 健三記)

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92号 会員の声  「原発推進・反対」と日本人の倫理観


カテゴリ:  原子力規制    2014-3-4 11:30   閲覧 (1691)

本稿の趣旨


我が国の現在の原発問題は泥沼化している。最大の原因は規制委員会に制約を設けなかった法制度の欠陥にある。制度設計の不備を洞察できなかった関係者の責任は大きい。一縷の望みは規制委員会による運転再開であるが、菅氏が反原発のため仕組んだと公言したように(北海道新聞4/30 ,2013)、島崎氏の恒常化した「後出しじゃんけん規制」や田中委員長の無意味で責任放棄の「パブコメ提案」の決定はこの望みを容赦なく打ち砕く。「規制は安全な原子力の活用が前提」を無視した規制委員会は何のためにあるのか、考え直す時期にきているのではないか。
現状を見るに解決の糸口は遠のき、規制委員会の無作為に期待する反原発グループに翻弄されるばかりである。規制委員会の権力の濫用と利用の精神を踏みにじる対応は我慢の限界を越していないか。その煽りを食らうのは産業や国民なのに、サイレントマジョリティーはどうしてよいか判らずにい
る。
今でも大江健三郎や坂本龍一などの芸術家がデモを組織し絶叫しているが、この状況が反原発の矛盾を表して余りある。科学・技術的に判断すれば彼らの主張に“勝ち目”はない。彼らは原発の代替を示せない。それだからこそ、情緒に頼らざるを得ず、「知の欠如は信の肥大化を生む」という状況を曝して恥じない。一般の人は気が付いていないが、反原発のプロが機会ある毎に、民主的手続きを妨害している様は目に余る。それを黙認しているのが反原発マスコミである。
ここには公正という文字はない。
“冷静な判断”を導くには“冷静でない判断”の起源を明らかにする必要がある。ここでは趣向を変え話題方式と質問形式を採用してみた。


話題1:ネズミと日本軍
[日本人と日本病について:山本七平/岸田秀 文藝春秋 1980年]


同書の“プロローグ”に岸田の鋭い指摘がある。厳しい状況に置かれたネズミが状況に応じてどう行動するか、実験結果の紹介である。極限状態に置かれた日本兵の挙動はネズミと同じではないか、という話。要約してみる。


「T字路の突き当たりを右に曲がれば餌があり、左に曲がれば電気ショックがある状況にネズミを置く。この時、右を明るく、左を暗くし、あるいは逆にしたりしても、ネズミは試行錯誤の後、餌のある方にだけ行くようになる。学習効果である。ところで、餌と電気ショック、明るくする・暗くす
る、の条件を規則的に変えているうちは餌にありつくが、不規則に変えるとネズミは状況を無視した固定的でかつ強迫的反応を示し始める。右側に曲がる反応が固定化すれば、餌があろうが電気ショックに行き当ろうが、いくら痛い目にあってもいつも右側に曲がる挙動を示す。」
岸田は言う。「このネズミの行動を擬人的に解釈すれば、ネズミは、規則性が発見できない状況に放り込まれてどうしてよいかわからず不安になり、しかし、腹が減ってくるから何らかの行動は起こさざるを得ないので、不安から逃れるため、とにかく根拠はないが右なら右へ曲がるという方針を決
定し、いったん決定すると、何度失敗しても断固として方針を変えないわけである。わたしには、このネズミと日本軍がダブって見える。」その結果、日本人は「情況は全く判らなくなった。判らなければ判らないで仕方がない。初志を貫徹するまでだ。それで全滅するなら全滅で結構だ。」といった心境になり実際そう行動した。これを原発問題に言い換えると、「反原発が正しいかどうか全く判らない。判らないなら判らないで仕方がない。断固、自分の生き方を貫き反対するだけだ。それで、日本が全滅するなら全滅で結構だ」となる。反原発派の挙動はこのネズミの挙動に似ていて、これではいつか来た道ではなかったのか、歴史を知る者には不安が募る。
このような情緒は「戦後は戦前の反対をやれば成功し、原爆を被ばくしたから原子力反対は平和につながる」という盲目的な信念を肥大化させた。「時代は変化し、かつてない国際状況にさらされ生き方に工夫がいる」のに、生き方を変えることができず、全滅しようがしまいがとにかく“戦前の反対”を貫くという姿勢の金縛りにあったまま。ネズミや追いつめられた日本兵と根本的に変わらない。
ここには状況に支配され易く、従って「空気」に唯々諾々として拘束される日本人の特性が明白。一般市民は「空気」の拘束にとらわれていて、冷静に実態を見る目を持たない。
そこで質問したい。
質問?:困難な状況に置かれた日本軍と反原発に狂奔するグループの行動は似ているかどうか。似ているとすればどこが似ているか。
質問?:戦後は戦前の反対をして成功した。失敗の反対は成功の要件であるという思い込みは時代の変化に追従できず、先のネズミの挙動と共通する。この見方を反原発に適用するとどうなるか。


話題2:西洋の二尊と日本の一尊
[空気の研究:山本七平 文春文庫 1983年、西洋紀聞:新井白石]


山本七平の“空気の研究”のあとがきに、新井白石の“西洋紀聞”に触れた興味深い記述がある。白石は、キリスト教布教の許しを将軍に乞うため1708年に日本に潜入し捕えられたイタリア人宣教師シドチを3回にわたって審問した。その内容を記した著書が西洋紀聞である。
白石は対話を通してシドチの中に2つの相容れない要素が混在していることに驚く。ひとつはシドチの人文科学上の知識と世界情勢に関する広範な認識であり、白石はこれを“賢なるもの”と呼び高く評価した。他方、彼をはるか遠方の日本に命をかけてまで布教に駆り立てたキリスト教。白石はシドチの志を理解できず、これを“愚なる”ものと呼んだ。この相異なったものが一人の人間の中に同居している事実に驚いたのであった。


「賢と愚」、これがシドチの中に共存している不思議。
忠、孝を旨とする儒教道徳に染まっていた当時の日本人はこのことが理解できない。日本での布教を懇願するシドチに対し白石は将軍 家宣に3つの策を献じ、2番目の策が採択され牢獄で息を引き取った。結局、キリスト教禁止策は変わらなかった。禁止の理由は、西洋人は常に「天(神)と現実」の
“二尊”を持つが日本人は、「臣は君を以て天とし、子は父を以て天とし、妻は夫を以て天とする」ため、「君、父、夫」を超えたものの存在はこの国には有害と考えたからである。
キリスト教では人はすべて“神”に直結する。神との関係は信仰であるが、同朋との関係は契約である。前者は縦の関係であるが、後者は横の関係である。このバランスが西洋にはあり日本にはない。科学・技術を生み出した近代思想と神は二尊であり、西洋はその共存に工夫を凝らしたが、明治はそれを受け入れなかった。放射能被曝に対する日本人の非科学性は神を基軸にした合理性を受け入れなかったことの当然の帰結である。日本人は状況に支配され易く科学がつけ入る
スキはない。冷静な対応ができなかったため、太平洋戦争で300万の日本兵が死んだのに米兵は30万人も死んではいない。理由は“状況支配”から脱却できなかったことにある。
この二尊の問題は「現人神と進化論」の共存がよい例である。戦前、人々は天皇を現人神と信じていた。同時に、学校で進化論も教えられていた。両者を結び付ければ、現人神の先祖は“サル”になる。この二尊は無意識の内に存在したが、誰もそれを口にせず、疑いを持たなかった。現人神は神聖化され国民の思考は停止したままであった。今で言えば、さしずめ、神聖化された憲法9条に対する思考停止であろう。
西洋では神の存在が科学とどう折り合うか、長い論争があった。その両者を結び付けるものが“神学”だった。神と現実を結び付けようという動機は日本人にはないから日本には本格的な“神学”はない。しかし、天皇の神格性を導出するため“神道”が機能していると思うが、それに対し筆者は無学である。
このような二尊の問題は、原発推進と反対をこの社会に共存させるある種の“神学”が生まれてよいはずなのに、それができない理由はどこにあるのか、といった問題を提起する。日本人の一尊からくる諸問題をどう克服するか、独創的な検討が望まれる。ヘーゲルの「正、反,合」と言った弁証
法は一つのヒントだと思うが、それを援用すればどうなるか、誰も考えようとしない。“正”は福島事故以前、“反”は事故の臨在観的把握に由来する反原発、“合”はそれらを超越した「新しい原子力の在り方」になるが、大江健三郎氏には低劣なデモに関わるよりこの哲学問題にかかわった方が
相応しいと言いたくなる。
質問?:原発推進と反対を融和させ社会に共存させる方策(原子力神学)はあるか。
質問?:相反するものの共存は便益を増幅させる効果がある。原発推進と反対の融合からどんな便益が期待できるか。


話題3:予定説と近代化
[日本人のためのイスラム原論:小室直樹 集英社 2002年]


日本人は先祖伝来一貫して汎神論的世界に住んでいる。この世界には一神論的世界特有の組織的体系的思想は生まれないし存在できない。キリスト教やユダヤ教では、人間は神によって創造されたとするが、日本では人が神を創造する。日本人は偶像崇拝を何とも思わないが、一神教ではそれは厳格
に排除する。日本人は「困った時の神頼み」を当然とするが、願えば叶えられるという因果律は、一神教では神を私物化していることになり徹底的に忌避される。中世に呪術を行い人々に恵みを施す事態が教会で日常茶飯事になって数百年継続したが、宗教改革でカルビンらによって「聖書に帰れ」と唱道され、神の恵みが否定され、プロテスタントが起こった。
そのカルビンは予定説を唱えた。現世における人々の行為は救いに全く関係なく、救いは神によってあらかじめ決められているという説である。功徳を積めば天国に行けるなどは妄想であるとした。救われるか救われないかは死ななければ判らない。これを聞いた信者は大変な不安に陥る。人々はどうするか。多くの人は、「救われる予定の人がする」であろう“行為”をひたすら行うことになる。例えば隣人愛に基づき善を施す。神のために資材を蓄え、それを社会のために使う。これが近代資本主義を起こさせたというのはマックス・ウエーバーである[プロテスタントの倫理と資本主義の精神]。
救われるか否かは神が決めていて死ぬまで判らない状況と、戦況がどうなっているか全く分からないという状況は、人間の心理に共通の不安を与える。この時、キリスト教信者は「神のためすべてを捧げて偉大な創造を生む」が、日本人は「自暴自棄になり高貴な精神を持って破滅」しがちである。この差が同じ戦争で一ケタ違う戦死者の差となった。
原子力混迷の根底には上に述べた情緒が存在し、科学が影響力を持てない点にある。西洋人が日本の反原発を理解しない理由である。予定説から派生した精神がヨーロッパの近代化を起こし近代資本主義を成立させたというのに、状況倫理に見られる日本的欠陥は放置されたままである。
質問?:日本人の行動規範は“状況”に大きく依存すると述べたが、その理由として以下のどれが最も正しいか。
(1)自分の考えで行動すると責任を自分で取らないといけなくなるから、
(2)長期的視点は面倒で、当面目先のことがうまくいけばよいと思うから、
(3)一神教のような絶対的基準を持たないから。
質問?:例えば、福島事故の中に無限の悲惨さを見る人と、事故の実態を相対化し無限の悲惨さは存在しないと思う人との違いはどこからくるか。
(1)悲惨さの意味を判断する基軸となる基準を持ってい
るかいないかによるから、
(2)臨在観的把握(物の怪に憑かれる)の金縛りを抜け出せるか、他の例と比較して有限性に気付くか、による(福島事故をチェルノと比べる、あるいは被爆地の広島・長崎では避難しなくて問題なかった事実)
(3)動揺と冷静の共存を制御できる心理的能力があるか否かによる。
最後に、話題1、2、3に共通する主題は何だろうか、考えていただければ幸いである。ご意見はHPのコメント欄にお寄せ下さい。
(宮 健三記)

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