誤解はどうし て生じるか原子力には感情的なアンカーが存在するから、ひとは原子力報道を誤解しがちとなる。みんなと一緒に 風評被害にはまると、ある種の連帯感が生じ、風評被害を通じて共同体の一員であることを確認しあう状況に陥る。このような誤解 の特徴を制御するにはどうしたらよいか、誤解の研究のテーマとして取り上げました。
1.誤解の種類と風評被害
「誤解はどうして生じるか」、その理由をアンカー効果や後光効果などに求めた。もちろん理由はこれに限らない。システム1は信じたがり、だまされ易いので多くの誤解の元である、というのが根幹である。「放射能を浴びると鼻血が出る」という漫画をみてあらぬ誤解を持つのはシステム1がそれを無批判に受け入れるからである。システム2を使って疑ってみれば、あほらしい話だと一蹴できるが、福島に存在する原子力のアンカーがそれは本当かも知れないと思わせる。そう思ったとたんに、いくつかの関連事項が結びつきもっともらしいシナリオを作るから人々の心に定着する。
様々な誤解のうち問題にしなくてはならないものは、人々に共有される偏見を伴った誤解や社会に多大な障害をもたらす誤解である。影響が大きく政治的に利用される誤解は問題にしなくてはならない。最終処分場の適地は日本には存在しないと誤解した小泉氏は問題をいたずらに政治的にさせるだけで、混乱の元である。しかし、彼の心情の理解にも配慮することが大事。真に国を思ってのことか、政治的目的の為か。前者なら同志ではないか。
誤解はまた発生の仕方と影響の大きさで分類される。自発的誤解と他発的誤解がそうである。例えば、国民は従軍慰安婦に関する朝日の虚偽報道によって数十年に亘って“誤解”させられた。朝日に植え付けられたという意味で“他発的誤解”である。
他方、周りに浮遊している誤解群をシステム2の働きなしでそうかと思う誤解は、自ら責任を負うべき誤解だから“自発的誤解”である。度重なる専門家の意見を無視して低線量であっても放射能は怖いとするのはそれなりに理由はあるかも知れないが、自ら選択した自発的誤解である。これらは面倒なことはしたくないシステム2がシステム1に屈した例である。
人は経済に対してはアンカーを持たないから、政治的な偏見や誤解は持たない。原子力には感情的なアンカーが存在するから原子力記事を誤解しがちとなる。みんなと一緒に風評被害にはまると、ある種の連帯感が生じる。人々は風評被害を通じて共同体の一員であることを確認しあっている状況に気づかなくてはならない。事実を歪めるNHKの原発報道が視聴者を虜にするのは、つじつまのあったシナリオ作りに有用な情報を提供しているからである。また、風評被害の話題を欲しがっている原発慎重派の人もそれを喜ぶ。これではいつまでたっても風評被害はなくなるまい。
2.制約条件というものの見方と誤解の本質
脳が作動するには動機が必要。この動機として生まれつき人間にまとわりついているものが「時間的空間的制約条件」である。制約条件とは望みの達成を妨げている条件をいう。
科学・技術の進展は、取りも直さず「時間と空間からくる制約条件を克服する」ことを動機にしてきた。このことは科学・技術にことさら明白である。長生きしたいのに若死にするのは時間的制約条件が働いたのである。学習したことはできるだけ長く憶えていたい。その記憶が時間と共に消えてしまうのも時間的制約である。
人類は病気で死ぬという制約条件を克服するため医学を発達させた。また、忘れるという制約条件は鉛筆と紙、録音器やハードディスク、などで克服してきた。さらに、昔は、江戸と京との間を行き来するのに何日もかかっていた。それを克服するために、人間は飛行機や汽車などの交通機関を発明・発展させた。
一方、死は天から与えられた人間の最大の制約条件だが、それは子供を産むというサイクルで克服されている。子孫を残すことができれば人類としての死はないから。米国における死亡通知は「彼は息子になって生き返った」である。
この視点から“誤解”はどう位置づけられるか。原子力誤解とは、生命に対する“不安”、どう行動したらよいか判らないという“困惑”、知的労力を節約したいという“本能”などに関連し、知りたくない真実から“逃避”することで安心を得ようとする“心”の動きと言ってもよい。心理的には、不安から、困惑から、あるいは勤勉から、逃れたい欲求に関する制約条件の“答え”が原子力誤解である。誤解はこのような制約条件を克服する手段として生みだされ、後述する仮相の形をとるのでその制御は易しくない。それ故、誤解を心理学的・科学的に解明するだけでは物足りない。アンカー効果などを思えば、心理学の援用を得て誤解を持つ人の“心”のなかに踏み込み、その世界がどんな世界かを調べなければならないのではないか。
3.制約条件の克服は仮相を必要とする
制約条件の克服は、五感に触れる“実相”だけでなく、時空を超える“仮相”の在り方にまで踏み込むことを要請している。しかし、これは大きな課題であり、論点を絞る必要がある。
仮相は脳内にだけ存在する。紙幣そのものは実相であるが貨幣価値は目に見えない“仮相”である。実相は時空からくる制約条件に縛られるが、仮相は縛られない。物質としての紙幣は古臭くなるが、それでも千円という価値は変わらない。ニュートンの運動則は仮相であるが、いつの時代でも真理なので時間の制約を受けない。宇宙のどこでも成立するので空間の制約も受けない。構造物は時間と共に劣化するが、仮相は劣化と無縁である。
ところで、時間は物の変化であって目に見えない。空間も同様で五感に触れない。物体が存在して初めて空間の存在に気付く。「時空は物が存在するから存在する」というのは驚くべき認識である。
また、常に変化する実相だけでは現代人は生きていけない。時空の制約条件を克服できる仮相が必要である。実相だけだと「変化に始まり変化に終わりカオスの域を出られない」。蓄積がなく進歩が見られない。言葉の意味、紙幣の価値、ラングとパロールのラング、音楽や絵画の意味、あらゆる学術など、時空に依存しないものはすべて仮相である。それ故、時空に依存しない法則や定理などは普遍的であると言われる。
一方、誤解も仮相である。ところで、正解は普遍性を持つが誤解は持たない。誤解は時空の制約条件を克服できないからである。それ故、誤解は自らの存在を確保するため、気に入らない正解を巧妙に排除しようとする。1mmSv以下の線量を要求する人は、科学的事実を主張する科学者を排除してきた。似非学者はそれに迎合して軽薄にも権威ある学識経験者を否定してきた。
アンカー効果などによる誤解の特徴はもうそれなりに理解できた。では、誤解を制御できる方法は何か、誤解を持った人の側に立った工夫が必要であるが、これこそ “誤解の研究” の重要なテーマである。
4.心理におけるエネルギー最小化原理
力学によれば、風に揺れる木の葉はエネルギーを最小化するように運動する。同様に、脳の働きも労力(エネルギー)を最小化するように機能するのではないか。
人は何かを理解しようとするとき脳が対象に作用する。その時イメージは重要な役割を果たす。これは瞬時に把握されるからシステム1である。システム1が働くとき脳や心はほとんどエネルギーを使わない。。
人の顔の印象を言葉で説明するとどういう事態になるか。目は大きい、鼻は高い、肌の色はつやがある、・・・このように延々と説明していってもAさんの顔を正確に印象づけられない。瞬時に働くイメージにはかなわない。これは長い年月をかけた進化の結果で「最小化原理は運動だけでなく認知作業にも当てはまる」例である。以上の理解をまとめてみよう。
1)自然現象が最小化原理から導出できるように、目標達成のための行動は “効率と効果” を重要な指標とする。それは時間的・空間的制約条件の克服になっているからである。効率は時間的、効果は空間的要素である。これが心理状態にも適用できるか否か。物理的にも心理的にも制約条件を克服したものが、目前の “秩序ある現実” である。ウィトゲンシュタインの “論理空間” は洞察に富んだ “世界の理解” である。
2) “誤解”に繋がる心理現象は脳の働きに必要な労力を最小化する原理に適っている。システム1は直感的認知でほとんど労力を要しない。生きていくには無数の認識が必要であるが、誤解もその一つである。それを直観的に行わなければたまったものではない。
3)しかし、「急いては事を仕損じる」ように、少し複雑な事柄を瞬時に理解しようとすると誤る確率が高くなる。誤解される対象(放射線は怖い)が人のアンカーと共鳴しあって心に定着するからである。日本人の年間自然放射能の被ばく線量は1.4 mmSv。福島では多くの汚染地域の線量は1mmSv 以下。福島以外の地域と変わらないレベル。それでもひとは帰還しない。誤解のもたらす典型的な帰結であろう。帰還問題は既に科学的問題ではなく、打算的な社会問題になっていないか。
心理学実験によれば、脳は単純なものを好み複雑な思考を嫌う。また、原発報道が量を無視しているように、人は数値といった定量性を本能的に嫌う。このような性癖がアンカー効果や後光効果をもたらしている。
このことに関連して面白い記事が産経新聞に掲載された。4月20日の“正論”である。「取り戻すべき『歴史認識』の本質」という長谷川 三千子氏の寄稿である。同氏は古代ギリシャの歴史家ツキディデスの例を引きながら「真実究明をいとうなかれ」の小見出しの中で、歴史認識の誤解について、「大多数の人間は真実を究明するための労力をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳をかたむける」というツキディデスの言葉を引いている。
趣旨は中国、韓国の一方的な政治的言いがかりの批判にあるが、これはまさしくシステム1にとどまれば最小化原理のもとで“誤解”が生じることを述べている。こういう視点から見れば、中国と韓国の主張は誤解に基づいた言いがかりだということがより一層明確になる。両国はシステム2に基づいて客観的な『歴史認識』をして欲しいものである。日本国民もそれに気づくべきである。
5.結 語
たまたま、今話題の「近藤麻理恵著:人生がときめく片づけの魔法、サンマーク出版」を読む機会があった。この本は世界的なベストセラーだそうである。そこには瞠目すべき視点があった。彼女は言う「本来片づけで選ぶべきなのは、『捨てるモノ』ではなく『残すモノ』です」と、さらに言う、「モノを一つひとつ手にとり、ときめくモノは残し、ときめかないモノは捨てる」と。
誤解をモノに置き換えたらどうなるかである。『捨てる誤解』は当然として『残す誤解』はあるのかと。誤解の中に『ときめく誤解』はあるのかと。1mmSvは科学的には間違ってはいるが、心情的には正しいのではないかと。“誤解”が真に研究対象になりうるのであれば、この視点は欠かせないのではないかと。単なる “片づけ” に哲学的色彩をもたらした若い著者に敬意を表したい。「誤解の研究」もこうあるべきではないか。 (宮 健三 記)
参考:「ファスト&スロー」ダニエル・カーネマン著 ハヤカワノンフィクション
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