誤解を科学すると題して、人間の知の出発点である「創造の基本形式」という視点から捉えてみました。すると”誤解”は究極のイデアに到達するまでの出発点だと捉えることができます。その過程を”登山電車“にたとえてみると、途中駅で「サワヤカ感」や「ナルホド感」が感じられるかどうかで、イデアへの到達度が判定されることになります。”登山電車”をイメージしながら、これまでとは違った論理の展開をお楽しみください。
1. 知っておくべき創造の形式
サッカーや囲碁などを楽しむ。これらの日常茶飯事の中に重要な原理が隠されているが、お気づきだろうか。聞きなれない言葉だが、それは“ラング”と“パロール”といわれる形式である。言語学では常識であるが、門外漢の我々にはなじみが薄い。
話し言葉や文章はその形式にぴったりはまる。ラングは文法で、パロールは文法に沿って作られた文あるいは話し言葉のこと。言語は人類の歴史において最初に発達した文化的所産であるが、創造の基本形式は既にここに存在していた。人類の“知”の出発点であったろう。
性行為において子供が生まれてくるのは永遠に変わらぬ生物学的ルールであるが、生まれてくる子供で同じ者は一人もいない。これも生殖におけるラングとパロールという創造の形式。スポーツや囲碁・将棋がルールとルールに基づいた創造の形式であるのは言うまでもない。ここで大事なことは「ルールは不変だが、パロールはすべて異なっており、同じものは一つとしてない」ということである。こうでないと世界はうまく行かない。
この視点に立って世界を見渡すと、創造の形式は人間活動のあらゆる分野に及んでいる。自動車や航空機は機械工学便覧を基礎にした製作手順書に基づいて設計・製作される。製作手順書が一定のルールで、設計・製作されたものがパロールに対応。あらゆる製造物がこの形式を取る。
この創造の形式を形にすると図−1のようになる。それは、選択原理、投射原理、結合原理、の3つの原理が協力し合って創造を行うことを表している。日本保全学会の和雑誌の裏表紙には11年間図−1を掲載し続けてきた。原子力における保全計画の策定といった保全行為もこのような創造の形式に従うことを示すためである。保全行為の体系化はこの基本原理に基づいて構築されるべきだというのが図−1の主張。
この認識は言語学者チョムスキーの生成文法に触発されている。生成文法では、文や話し言葉の生成はこの創造の形式に従うことを主張している。この創造の形式を心理現象に適用すれば、図−2のようになる。アンカー効果などが事実を歪曲し、製品としての“誤解”を生むメカニズムを示している。
それでは、このような人間の文化活動の基本である「創造の形式」と“誤解”はどのような関係にあるのだろうか。
2.誤解を科学する(1) − 誤解も創造の形式を持つ −
“誤解”も普遍的な「創造の形式」に則って生成されることを説明したい。
図−1では、選択原理では創造の素材・材料を指し、必要なものが取捨選択される。単語群や構造物の部品などを思えばよい。投射原理では素材・材料が変形・加工され、製品をうみだす一種のフィルターである。誤解の場合、アンカー効果、後光効果、先行刺激効果、などが投射原理で、正しい理解を歪曲するフィルターである。システム1の世界である。システム2が歪曲作用に歯止めをかけるのはこの投射原理の土俵である。歪められた結果は結合原理になっており“誤解”という製品である。誤解に限らず、あらゆる心理現象がこの「創造の形式」に則っているのではないか。アンカー効果などと異なった投射原理が作用すれば、結論として得られる感想や行動も異なってくる。誤解の場合、典型的な例がアンカー効果や後光効果であるが、ここに光を当てて特徴を調べるのが“誤解の研究”である。
3.誤解を科学する(2)− 誤解はイデアに向けた出発点 −
ところで、物の本質はイデアにあると主張したのはソクラテスを師としたプラトンである。現実にはいろいろな三角形があるが、それらを共通に三角形と認識できるのは何故か。青いリンゴや赤いリンゴがあるが共にリンゴである。
それらを三角形やリンゴと認知できるのは何故か。プラトンは「それは人々が三角形とリンゴの“イデア”を共有しているからだ」という。すり切れた千円札もピカピカの千円札と同じ千円の価値を持つ。これを万人が認めあう。千円という価値は千円札のイデアであるという仕組みを共有する。取り敢えずイデアは物の本質で正しい理解と定義しておく。
「原発は原爆のように核爆発する」といった科学的誤解は、原発の“イデア(原理)”を知らないからだ。しかし、これを愚かな認識として切り捨てるのは専門家の傲慢である。原爆から出発して原発のイデアに至ればよいだけのことで、できるだけ感情の持ち込みを排し、共にイデアに至るという動機を持つことが重要である。
誤解から出発して正解あるいはイデアに至る、これほど望ましいことはないからである。この過程を “誤解分析の登山電車” に例えたらどうか。
4.誤解を科学する(3)− 誤解からイデアに至る登山電車 −
かつて、坂本龍一が「ロッカショから大量の放射性物質が垂れ流しになっている」[ロッカショ 2万4000年後の地球へのメッセージ、講談社、2007]という誤解を吹聴していた。この主張には原発に対する憎悪の匂いがプンプンする。専門家はこの言明が間違いだとすぐに見抜くが、そもそも、憎悪がこもった主張が真っ当なはずはあり得ない。ここには、“サワヤカ感”がないという感覚が重要である。しかし、坂本氏の誤解を一方的に否定するのではなく、建設的に取り上げ、イデアに至るさわやかな例に昇華できれば新しい世界が開けるように思う。この姿勢はコペルニクス的転回であり、新しい対話の土俵の創造を意味している。
具体的には、1)まず量の比較を行う、2)放射性物質を希釈して海に捨てるとき、国の基準値に沿っている事を科学的・経験的に示す、3)発言の意図の裏にある悪意を希釈するため、“問題の相対化”に触れる、4)最後に坂本氏の主張は科学的には間違いだが情緒的には必ずしも誤りでないことを示す。こうして、得られた弁論に“サワヤカ感”があるかどうか、あれば、誤解はイデアに向かって正しい道を歩んでいるとし、なければ再度工夫する。これが、誤解を発展させる一つの方法となる。
ここで、このような弁論を経てイデアに至ろうとする過程を山の頂上のイデアに向かう登山電車になぞらえて、最初に出発する駅が “誤解の駅” で次の “科学の駅” までに、1)科学的に量の比較を行い、放出量が国の基準を満たしている事を示す。 “科学の駅” を出て次の “現世の駅” に到達するまでに、2)ものごとは絶対的に考えてはだめで“相対的”に考えなければならないことを示す。人間が住む地球は放射能を大量に流してもびくともしない位膨大である。実際は少量しか流さず、しかも時間が経つと放射能は減衰しきってしまうことを知る。放射能放出ゼロという主張は判るが、少量の放出は社会が豊かな生活を望む以上許してもらわなければならないというのが現世のルールである。 “現世の駅” を出て次の “情緒の駅” に至るまでに、3)限られた前提の下では正しく、それ以外の場合には誤りであることを示す。 “情緒の駅” から終点の “イデアの駅” では、このようなアプローチの全体像を認識する。
イデアに近づき誤解が解明されたと思える時「 “サワヤカ(爽快)”感が感じられるかどうか」を以てして、正解が得られたかどうかの判定基準にしたい。心理的な誤解の場合には、この “サワヤカ感” を伴うかどうか、がことさら重要である。千円札の価値を万人が共有するように、この“サワヤカ感”を共有できるとき、“誤解”はヘーゲルのいう止揚が果たされた状態になる。対立は解消し次の発展的土俵に移れる。サワヤカ感にひたれる理解、これを心理的理解と呼びたい。
一方、論理的誤解に関して正しくない点が正されると「なるほど、そうだったのか」という安堵感にひたれる。論理的理解がある程度達成された時、人はこの“ナルホド感”にひたれる。このように考えてくると、イ)誤解は活用されるべきである、ロ)その時、心理的誤解は“サワヤカ感”の程度によって、ハ)論理的誤解は“ナルホド感”の程度に依存して、イデアへの近接度が判定されるとする。
中国成都からラサに向かうチベット鉄道のように、素晴らしい登山鉄道になるよう弁論を工夫し、“サワヤカ感”や“ナルホド感”が十分得られるようにできたらどれほど素晴らしいか。
この時、アンカー効果と後光効果はどう関連するのか。イデアに至ろうとするとき、システム1とサワヤカ感の一騎打ちとなる。この時、知的欲求がトキメキ感になりサワヤカ感に加勢すればしめたもの。反原発だがこの国の将来に不安を持つサイレントマジョリティーに対し、このようなアプローチが新鮮な思考方法として受容されるかどうか。一つの実験である。
5.結 語
これまでの論旨をまとめてみよう。
1) システム1と2の働きを紹介し、心理現象としてアンカー効果、後光効果、先行刺激効果、などの働きが
どのように理解を歪曲し、行動に反映されるか、を説明した。
2) 小泉氏の反原発発言を取り上げ、その矛盾を指摘した。システム2の働きが期待されているが、それを無
視すると小泉氏のようになっても不思議でないことを主張した。
3) 誤解も“時空の制約条件”を克服しようとする手段になるから、周りの環境条件に依存して生成されると述
べた。同時に人間の文化的・学術的活動において、仮相・実相という捉え方が如何に重要であるか述べ
た。
4) 誤解を「創造の形式」という視点から捉えるとどうなるか見解を述べた。誤解はイデアに至る登山電車の
各駅に例えられる。登山電車の設計が重要である。その時、誤解電車の窓外の景色を見ながら考えたこと
に対し、“サワヤカ感”と“ナルホド感”をどの程度感じることができるか、これを妥当性の判定基準にした
い。
このような視点から“誤解”を洗い直していったらどうなるか、今後の課題である。
参考:「ファスト&スロー」ダニエル・カーネマン著 ハヤカワノンフィクション文庫
(宮 健三 記)
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