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SEJ 日本のエネルギーを考える会

125号 原子力を元気にするために ―澤氏遺言から出発―


カテゴリ:  原子力政策    2016-6-1 18:10   閲覧 (1976)

亡くなられた澤昭裕氏は、エネルギー政策論の大家であるが、本節のタイトルのような言葉を残した

 

1.「原子力を殺すのは原子力村自身である」


亡くなられた澤昭裕氏は、エネルギー政策論の大家であるが、本節のタイトルのような言葉を残した(Wedge3月号澤昭裕遺稿「原子力論」)。この遺言を福島の原発事故を契機に、パラダイム変換が求められていると解釈すべきであろう。確かに事故後、再稼働できた原子炉は、川内原発2基だけで、高浜発電所は裁判により停止している。高速原型炉「もんじゅ」は、原子力規制委員会の勧告を受けて、対策に大わらわである。将来炉であると言われている高速炉も開発の道筋が見えていない。もっと問題なのは、地震で停止した原発の再稼働も遅々として進まないことである。これらには規制のあり方に変革を迫っている。原子力に係る関係者がこれを認識していない。これが「原子力を殺すのは原子力村自身である」ということであろう。

2.「原子力はどれだけ、どうして必要か」:リスクに備える


問題解決に当たって、日本人の伝統的手法は、1)起こった時に対処を考えればよい。2)起こったことは水に流すというものである。
この手法は長く機能してきた。従って、日本人は、リスクを考えることが苦手である。このことはリスクに対応する日本語がないことでもわかる。しかしながらよく考えてみればこの解決法は、リスクが、量的にも項目的にも小さい範囲で変動している場合にのみ通用する方法ではないのか。
今日になって、日本社会に巨大技術システムが入り込み事故や財産の損害をもたらす事態が格段に増え、複雑となった。また昨今、外国人も多数が常時日本に滞在して社会活動を行っている時代になり、リスクの種類も深さも格段に大きくなり、伝統的なやり方では個人としても国家としても対処していけなくなっている。気候変動、先進技術(原子力、航空・ロケット、インターネット、金融)のもたらすリスクは、きわめて大きくなっているのである。原子力に話を戻す。
原子力に係るリスクを澤氏の論文と情報リスクを合わせて表1に示した。
世の中では、特にマスコミの世界では原子力発電の存在やその増大に伴うリスクばかりが強調されているが、原子力が減少しても対処困難なリスクがあり、それに備えることは容易でないことが見て取れる。以上は、国として原子力をどうするのかといった大局的なリスクであろう。しかし、リスクはこれだけではない。原子力を進めようと意思決定をするときのリスクもある。そこでは、投下資本の回収や原子力の「規制リスク」、他のエネルギー源との競争リスク、電力自由化に伴うリスクが重要になる。ただ、リスクを定性的に挙げるだけではリスクマネジメントなどを実行するうえで、十分ではない。リスクを量的に評価し、国民の判断に供するようにしないと使いづらい。ここでは専門家の知恵と分析が求められる。いずれにせよ、今こそ政府も国民もリスク意識を涵養し、それに対処するという手法をとりいれ、実行する時代に来ている。

 

3.原子力に係る制度疲労


原子力は1950年代に開発が始まって以来、優秀な学生を含む人材が集まり、順調に発展してきた。1979年、1986年にTMI、チェルノブイリ原発の事故が発生し、流れが変わり多くの人に原子力の安全性に疑念を抱かせることとなった。日本ではさらに福島第一原子力発電所の事故が原発に対する消極的な態度を加速したといってよい。最近では安全性問題だけではない、原子力の推進体制のあらゆるところで制度疲労が生じ、機能していないようである。ではどんなところで制度疲労しているのであろうか。以下の点が典型例として指摘される。

・電力自由化時代に対応した原子力推進体制(制度も含む)になっていない。
・規制も規制委員会制度が発足したものの、旧来の制度を引きずり、同様の米国の制度に比べて、専門性、委員会の運営の在り方、監査制度、司法的機能の在り方など不十分な点が多い。
・長く続けてきた国策民営型の原子力開発体制に替わる制度が見えていない。
・従来の原子力教育の限界を脱するための、実践に重点を置いた原子力教育がない。
・新型革新炉の開発の停滞が長く続き、若い人の意欲を減退させている。

4.危機に戦略的に対応できる人材の重要性


 制度さえ整えばよいというものではない。それを運用するマネジメントやリーダーがなければ動かない。戦争や緊急事態に備えて、マニュアルを作っておくべきである。マニュアルは完全を期すように努力しなければならない。事態に対処するにあたり、マニュアルのどの部分を使うか、人が判断しなければならない。マニュアルと判断する人を有機的、機能的関係にしておく必要がある。そして判断する人も複数養成しておく必要がある。ミッドウエー海戦では、東郷元帥のように判断できる人がいなかったのが、敗戦の最大の原因である。福島の事故も日本の技術でなかったことに問題があったのではないか。危機意識はあったのだろうか。
 外交や安全保障が絡んでくると、原子力は手放せない。米大統領選のトランプ氏のような新しい風が吹いて、日本との関係が見直され、アメリカ軍が日本を守ってくれないのなら日本が自立してやるしかない。軍事とエネルギー安全保障が絡んでくると原子力を手放すことはできない。
 原子力への関わりとして、エネルギーや原子力に愛情を感じる。凄いものを作っている。しっかりしている。そしてそれについてくる人がいることが重要なのではないか。エネルギーを専攻する学生が、肩身の狭い思いをしないように後押しする必要がある。

5.規制とは先んじて、リスクの顕在化を防ぐこと



 規制に関して言えば、米国規制委員会はしっかりしているが、日本の規制委員会・規制庁は素人集団である。米国とレベルが違う。新規制基準は世界共通であるかどうか、規制委員会は説明していない。電力会社の説明が信用されないとすれば、それは規制委員会の役割ではないか。韓国や中国でさえ、福島の事故から教訓を得ていち早く手を打っている。日本では、福島の事故からどのような教訓を得て、どのような対策を打ったか、どのようなリスクを考慮し、どういう手を打ったか説明がない。また、ハードに対する対策だけでなく、ソフト面はどうしたのか、組織はどうなったか、問題が生じたら誰が責任を取るのか。このような、全体像が見えるような説明がない。
さらに、どのような規制をすべきか炉の開発や開発した炉の暴走を未然に防ぐため、炉の開発をする以前から考えておく必要がある。そうでないと革新炉の開発は規制のリスクを考え、落ち着いて進めることができない。また、もんじゅのような開発段階の炉は、実用炉と同じレベルにする必要はない。開発段階では技術が絶えず進歩し、その技術に対応する規制が求められるのであり、規制側と開発者側の絶えざる意見交換が必要となるからである。
経済を考えない、安全オンリーの規制は、総合的なリスクを考えない典型的な例である。米国では、大統領令もありそのようなことは許されない。日本でも行政評価制度はあるのだが、日本人(官僚)の仲間意識の強さのせいか活用されていない。そのうえ、そこにはリスク意識は見られない。全体のリスクを考えた戦略こそが大切なのである。

6.提言


 原子力には様々なリスクが取り巻いていることを見てきた。原子力に反対する人の頭の中にあるものは、のどかな農村型社会でしかない。これは単なる懐古思想で、現実の日本の社会は、欧米型で、科学技術とエネルギーをふんだんに使った都市型社会である。エネルギーが途切れれば、この社会は途端に維持できなくなり、人々は相当に貧困にさらされると想像される。今の若い人は日本を去らざるを得なくなるのではないか。なんとしても原子力を起爆剤としてこの状況を打破したい。以下は原子力を復活するための提言を示した。(植田 脩三 記)

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