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SEJ 日本のエネルギーを考える会

91号 ドイツの再生可能エネルギー政策の転機


カテゴリ:  エネルギー    2014-2-18 17:00   閲覧 (2617)

編集局


再生可能エネルギーの導入に熱心に取り組んできたドイツですが、ここにきてその政策は転機を迎えています。わが国も、その行方に注意を払って見ていかなければなりません。

はじめに


ドイツが再生可能エネルギー導入に熱心なことは、よく知られており、その総発電容量に占める割合は、2013年には23.4%にまで増加した。しかし増加率は、2012年に比べ、わずか0.6%増になっている。
太陽光発電は;
注目すべきは、導入量で世界一を誇った太陽光発電が、買取価格の引き下げ、太陽光パネルの価格下落が止ったことによる発電事業の収益性の低下等により、新規導入量が2012年に比べ55%減の330万KWとなり、年間ベースで米、中、日の三国に抜かれたのは確実ということである。
買取価格は、電気料金の急上昇を抑えるために、それまでの半年に1回程度の見直しから、直前の発電コストの実勢価格を反映した毎月の見直しに転換し、2013年12月の太陽光発電の買取価格は、1KW時あたり9.61セント(約14円)から13.88 セントとの間となり、2年間で約5割下落しているという。(2014年1月14日 日本経済新聞)



風力発電は;


風力発電についても、風況の良い北部ドイツに集中しているが、蓄電技術が未発達のため、風の強い夜間には、電力の余った場合、固定価格買取制度のため、停止などの出力調整が電力側で出来ず、お金を払ってまでして他国に売電している。受け取る側も、わざわざ自国の発電所の出力を下げ、稼働率を落としてまでして、電力を輸入している例が頻発している。つまり、ドイツの市民は自分で使わない電気の分まで負担するという経済合理性に反することを強いられていることになる。
しかも、風力発電所の多い北部から電力需要の多い南部への送電線の建設が、環境問題等で住民の反対が強く進んでいないため、風力発電所はできたものの、繋げる送電線が無いために遊んでいる例が多発しているという深刻な状態である。



買取にかかる費用は、市民が負担することになっており、3人家族の場合、1KW時あたり2000年では13.94セントだったものが、2013年には28.50セントと倍以上に増えている。産業界においても、高い電気料金に不平、悲鳴が充満しており、メルケル政権で連立を組む脱原発の社会民主党党首のエネルギー大臣は、ついに再生可能エネルギーに過度の期待をするエネルギー政策の行き過ぎを認め、これまで好調なドイツ産業の弱体化の恐れを言い始めた。


具体的には、太陽光発電と風力発電に対する補助金を、海岸立地の風力発電と太陽光発電ファームの拡大を適切にコントロールする制限を設けて、2015年までに1/3削減することを年明け早々提案している。

ドイツの政策転換;


このような事態は、風力発電や太陽光発電の導入を急ぐあまり、需要地への送電網強化や需要と供給のミスマッチを調整する蓄電や火力発電による負荷調整などの、あらかじめ対策をとるべきことを怠ったことにある。
しかし原子力発電のフェイズアウト時期については変更していなく、現在でも9基が引き続いて運転中である。一方、他のEU諸国は原子力発電に期待しており、最近発表された「EUのエネルギー・運輸・GHG排出:2050年までの傾向」と題する報告書では、EUの2050年における原子力発電の設備容量は、ドイツとベルギーでの脱原子力はあるものの、それと同等な設備容量の運転延長と新規建設プラントを見込むことによって、2010年の131.3GWeとほぼ同じレベルであろうとのことである。



理由として、温暖化防止のためには原子力発電が欠かせないことをあげているが、一方のドイツでは、再生エネルギーの導入の方針は変わらないとしても、再生可能エネルギーで賄えない電力は、国産エネルギーの最たるものである褐炭、泥炭の発電を安易に活用しようとしており、結果として自給
率は30%程度に維持されることとなる。
安価ではあるものの温暖化対策上、避けるべき褐炭、泥炭による発電量が、2013年には、1990年以降最大となっていることは余り知られていない事実である。
つまり、地球温暖化防止に最も先進的に取り組んできていると標榜するドイツが、それに反する政策を取りつつあるという皮肉な現実がある。
このような再生可能エネルギーに先進的に取り組んできたドイツであるが、その政策転換には注意を払っていくべきであろう。



コラム 日本は法治国家か、“報”治国家か?
−見事に外れたGHQの思惑 朝日、毎日、東京各紙の左傾化−



子供の頃に学校で、「日本は法治国家である」と習った。同時に三権分立という制度も習った。法律を作り、それを運用し、それを守らせるための、子供でも分かる制度である。だから小学校で教えられる。
翻って、今の日本の状況を見ると、日本が法律によってきちんと治められているとはとても思えない。憲法で保証された権利である「言論の自由」のマスメディアによる濫用が目に余る。小学校でも「権利には義務が伴う」と習った。公に「言論の自由」を主張するマスメディア関係者達には、節度ある主張を行い、その主張の根拠を明確に示す義務が伴うのは当然であろう。

筆者もその昔、中学生の頃に兄と大論争をした記憶が有る。議論の目的は忘れたが、筆者の議論の拠り所は「朝日新聞が根拠もない主張を活字にするはずがない」という朝日に対する盲目的信頼だったのである。今、こうして振り返って考えてみると笑い話にもならないが、その程度に影響力が有るということを新聞社は正しく認識し、偏向した記事などは断じて排除すべきなのである。
そして更に、三権分立の思想にも取り入れられている「本来あるべき機能からの逸脱を監視・抑制する制度」が整えられているべきであるが、マスメディアの世界にはそれが無いか、あるいは脆弱なものしか用意されていない。テレビ、ラジオには放送倫理・番組向上機構(BPO)があり、新聞には日本新聞協会の新聞倫理綱領が有ると言うであろうが、極めて脆弱であり、節度ある報道がなされるためには全く機能していない。

報道機関が反日、反原発を煽り、誰もそれを抑制できず、民主党政権に至っては、超法規的措置と称して全原発を法的根拠なく停止させた。自民党政権になっても、朝日、毎日、東京各紙その他の根拠の薄弱な主張に煽られてしまった国民の意向が、見えにくいために、未だに原発の再稼働が出来ていない。毎年3兆円〜5兆円の国富を産油国に吐き出していることが分かっているにもかかわらずである。
朝日、毎日、東京各紙などマスメディアによる「言論の自由」という名目で行われているペンの暴力の結果、日本は法治国家の体をなさなくなっているのである。法律によって治められているのではなく、報道機関によって抑制なく治められている“報”治国家になり下がっていると思うのは筆者ばかりではあるまい。
以前にも書いたが、日本には「日刊 新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律」(日刊新聞法)という、既に役目を終わったと思われる陳腐な法律が有る。GHQが日本の日刊新聞が左傾化するのを恐れて、その株式の譲渡を制限しようとしたのがこの法律の生い立ちである。GHQの思惑は見事に外れて、この法律の存在にもかかわらず、朝日、毎日、東京各紙は見事に左傾化した。

さらに悪いことに、これら左傾化した新聞社のみならず全ての新聞社がこの法律が有ることを良いことに、各新聞社はその株式を身内だけが保有し、当たり前の企業であれば受けるはずの株主による監視さえも受けないで済む環境に自らを置いているのである。もしも、新聞社に良心というものがわずかでも残っているのであれば、まずはこの陳腐な法律の廃止を自ら申し出るべきであろう。そして、自らを監視される立場に置くことによって、「言論の自由」の名をかたる暴走を止めるシステムを作り上げるべきなのである。
(E.I.記)

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